今日、金魚が死んだ。
征司が連れてきた、赤くて丸くてしっぽがヒラヒラした可愛い金魚。
とても可愛がっていたのに、そんなこいつを置いてまで征司は出て行ってしまった。
金魚なんて征司が世話していた間はそんなに気にしてなかったけど、あいつがいなくなってしまってからはオレが餌をやらないと死んでしまうから仕方なくやり始めたんだが、オレが側を通っただけで餌をねだって水面にパクパク浮いて来るのが懐かれてるみたいで可愛くって、毎日きちんと餌をやってちゃんと面倒を見てやっているつもりだった。
だけど、それが間違いだった。
金魚が逆さまになって底に沈んで餌も食えないような状態になってから、オレはようやく『金魚の飼い方』なんて本を買ってきて、金魚には欲しがる時に欲しがるだけ餌をやってはいけないことを知った。
きちんと時間を決めてきっちり食べきれる量をやるようにしないと、消化不良を起こして死んでしまうこともあるそうだ。
それはマズいと本に書いてある対処法に従って、水槽に塩を入れてしばらく絶食をさせて様子を見ようとしたんだが、仕事から帰ると金魚はすでに死んでいた。
ヒラヒラの可愛いしっぽはもう動かない。
喜ぶ様が見たいからと好きなだけ食べさせるのは、愛情じゃなくただの自己満足だったと気付いた時には遅かった。
征司に対してもオレはそうだった。
ブランド物の服だのをプレゼントする金が欲しくて、ガンガン残業を入れて毎日遅くまで働いた。
征司はオレとふたりで旅行に行きたがったが、噂が立たったりしないように人目を気にして一度も連れて行ってやらなかった。
それは全部全部、征司のためになる事だと思っていたけどそうじゃなかった。
「一緒にいられないなら、ここに居る意味なんてないじゃん」
そう言って征司がオレの部屋から飛び出すまで、オレは本当に大切なことに気が付かなかった。
征司はただ、オレと一緒にいたがっていただけなのに。
見当違いの愛情で、去ってしまった大好きな征司。
間違った愛情の押しつけで、死なせてしまった可愛い金魚。
どちらももう戻ってこない。
金魚の亡骸をいつまでも水槽に置いておくわけにもいかないけど、家はマンションの3階で庭がないんで、近所の公園の隅に綺麗なハンカチで包んで埋めた。
ここなら小さいながらも噴水があるから、金魚も喜ぶかもしれない。――なんて、これもただの自己満足かな。
とにかく埋葬をすませたオレは、ひとり寂しく部屋へと戻った。
玄関の靴箱の上の、金魚が居ない空っぽの水槽。征司の居ない空っぽの部屋。
「いや、空っぽなのはオレの心だ」
なんてクソ寒々しいセリフを吐いてみても、頭を殴ってくれる人も居ない。
虚しく日々が過ぎてゆく。
明日は休日という金曜になっても嬉しくも何ともない。一緒に出掛けてくれる人もなくひとりですることもない休日なんて、仕事をしてる方がマシ。とは言え、もう無理に仕事を入れる必要もない。
そうなるとふて寝でもしているより他はない。
オレは明日は1日寝潰すつもりでやけ酒を飲んで、ベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。
ひやりと冷たい物が頬に触れた気がして目が覚めた。
夢とは思えないそのリアルな感触に、起き上がって暗い部屋の中で目をこらすと、ベッドサイドに征司の姿があった。
「征司! 戻ってきてくれたのか! よかっ――」
思わず掴んだ征司の手は氷のよう、とまでは言わないが異様に冷たかった。まるでずっと水の中に手を突っ込んでたみたいだ。
「征司? お前、どうしたんだ?」
「あのね、征司さんじゃないの」
「は?」
征司じゃない? 顔も姿も声も征司の物だけど、確かにあいつはこんな舌っ足らずなしゃべり方はしない。
でもだったら、征司じゃないならこいつは誰だ? どうやって部屋へ入ったんだ?
「他の人はあんまり見たこと無いから、こうしか成れないの。あなたにも成れるけど、それはややっこしいと思うの。だからこの恰好なの」
混乱するオレに、目の前の征司もどきはさらにわけの分からないことを言ってくる。
「なれるって?」
「ふたりのことはいっつも見てたから、まねっこしたの」
「見てたって……おまっ……いや、とにかく征司じゃなけりゃお前は一体誰なんだ?」
征司の双子の弟か? って、そんなの居るなんて聞いてない。
この部屋で、オレと征司を見てたってことは――
「お前、キンギョ?」
半信半疑というか思い付きで言った言葉に、目の前の相手は嬉しそうににっこり微笑んだ。
ホントのホントにあの金魚か!
化けて出られても仕方のないことはしたけど、本当に化けて出るやつがあるか! しかも征司の姿でってのは質が悪すぎやしないか?
「化けて出るのはいいが、何で征司の恰好なんだ?」
「金魚のままじゃしゃべれないもの」
ああ、そうか。恨み言を言いに来たのにしゃべれないんじゃ意味がないか。
しかし恨み言ならいくらでも聞くが、こいつには「恨めしや〜」なんてそんな雰囲気は全くなくニコニコと笑っている。
恨んで化けて出たんじゃないならいったい何の用だっていうんだ。
オレはベッドの上で正座して、膝立ちでベッドに手をついてオレを見上げている金魚と向き合って問いかけた。
「で、その金魚が何しに来たんだ?」
「お願いがあってきたの」
「そうか、よし! 何でも願え! 墓の場所が気に入らないのか?」
何が何だか分からんが、征司の顔で征司の声でお願いなんてされちゃったら聞くしかないだろう。
身を乗り出して訊ねる俺に、征司もどきの金魚は可愛く首を振った。
「ううん。そうじゃないの。あそこはとっても素敵! あそこね、晴れた日のお昼には噴水に虹が架かるの。虹はとっても綺麗。だから僕は今度は虹色の金魚になりたいの」
「えっと……で?」
それで何をお願いしたいのか分からないオレに、金魚はもどかしそうに両手を上下に振りながら言葉を続けた。
「だから、お祈りをして! 僕が今度は虹色の金魚に生まれ変われますようにって」
「それはいいけど、また金魚でいいわけ? 人間には、なりたくない?」
「うん。また金魚がいいの。虹色の金魚になって、それで征司さんとあなたと、またみんなで一緒に暮らしたいの」
「お前……またオレにバカみたいに餌食わされて……死んじまうぞ」
「だから! 征司さんがいいの。征司さんもいなきゃ駄目なの。それに征司さんはあなたがいないと駄目なの」
だったら何で出てったんだよ。オレだって、征司がいないと駄目なのに。
言いかけるオレを遮るように、金魚は話し続ける。
「征司さんはいっつも僕の前でずっと待ってたの。まだかなまだかなって、あなたが帰るの待ってたの」
金魚の水槽が置かれた玄関で、金魚に話しかけながら俺を待ってたって……征司のやつそんな可愛いことをやってたのか。
「でもあなたがなかなか帰ってこないから探しに行って、きっと迷子になったの。だから帰って来れないの。探してあげて。連れて帰ってあげて」
俺の座っているベッドの上に身を乗り出して、必死になって頼む征司―― いや、金魚なんだけど。とにかく征司の姿をしたやつがオレの側にいる。
――おかしな夢だ。だけど、夢でもいい。
「分かった。探す。連れて帰る。もう二度と逃がさない」
「それでね、僕のことも探してね? 僕も一緒ね?」
「ああ。征司とふたりで虹色の金魚になったお前を探してやる」
オレの言葉に、征司が嬉しそうに微笑む。
ああ、いいな。征司の笑顔はやっぱり最高だ。これが夢じゃなかったらどんなにいいか。
だけど、どうせこれは夢なんだから。せめて夢の中でくらい、いいよな。
征司な金魚をそっと引き寄せて唇を合わせる。
唇を離すと、驚いたように一瞬目をまん丸に見開いた征司が、にっこり笑った。
「これ、約束ね? 約束のキスだよね?」
「ああ、そうだよ」
そう言ってもう一度ゆっくりと唇を合わす。
水のように冷たいキス。だけどそれが、心にひどく暖かかった。
「あー、もう昼か……」
目を覚ますと、すっかり日は昇りきっていた。
窓から差し込む光が目にしみる。
たっぷり眠ったはずなのに、頭はぼんやりしてすっきりしない。二日酔いか、寝過ぎたせいか、それともおかしな夢を見たせいか。
征司が金魚で――いや、金魚が征司の恰好で化けて出て、だけどオレのことを恨んでなくて一緒に居たいって……そんなバカな。
そんな都合のいい話があるか。死なせた罪悪感から逃げようとしてあんな自分に都合のいい夢を見るなんて、なかなか最低じゃないか。
"晴れた日の昼は虹が見える"なんて、ホント夢だよなあ。
虹なんてそんなもの、あの公園で見たことは無い。大体あんなしょぼい噴水に虹なんて架かるわけがないだろう。
でも、あの公園に昼間に行った事は無いし、もしかして――いや、そんなことはない。
そう思いながらも、オレは公園へと向かった。
土曜の昼間だというのに、いや、休みの日だからこんな近場の小さな公園になんて遊びに来る子はいないのか、誰も居ない公園を進む。
「この辺だよな」
オレが金魚を埋めた樹の下へ辺りまで行って立ち止まる。金魚が虹を見たとしたらこの辺りからだろう。
夢だ夢だと思いながらも変にリアルを追求してしまって、オレは金魚を埋めた樹の近くでしゃがみ込んで噴水を見上げた。
「……マジかよ」
振り仰いだ噴水から吹き上がる水は太陽の光を浴びてキラキラと輝き、その水しぶきが空中に小さな虹を掛けていた。
「うん。これは、綺麗だ」
あの虹が、金魚の形で水の中を泳ぎ回ったり、餌クレクレとしっぽを振ってねだってきたりしたら最高に可愛いだろう。
「神様、仏様。どっちでもいいからお願いです。どうかあいつを虹色の金魚にしてやって下さい」
オレは無神論者だが、この際それは気にしない。とにかくオレは心の底からそう願った。
あいつを虹色金魚にしてやりたい。そしてそれを征司にも見せてやりたい。
いや、征司とふたりで一緒に見たい。
散々寂しい思いをさせて悲しませて、おまけに金魚まで死なせて合わせる顔がないと思ってたけど、そんな甘えたことは言ってられない。
征司だって仕事があるし、実家には帰らず隣の県のあいつの兄貴の所に転がり込んでいるはず。あの兄貴は苦手だけど、迎えに行こう。
それから金魚を死なせたことを伝えて土下座してでも謝って、あいつの生まれ変わりを探しに行くんだ。
ふたりで一緒にどこへでもどこまでも―― 虹色の金魚を探しに。