つんつんと、冷たい指に頬をつつかれて目が覚めた。
「征司! ――じゃなくて、金魚だな」
目を覚ました俺の目に映ったのは、にっこり笑顔の征司――と思ったが、姿形はそっくり征司だが、微笑み方というか雰囲気が全然違う。何よりこの指の水のように冷たい不思議な感覚は忘れ得ない。
こいつは金魚だ。
あれはほんの一ヶ月ほど前のこと。同棲していた恋人の征司に愛想を尽かされ逃げられて、征司の置いていったまん丸可愛い金魚まで死なせてひとりきりになったオレの元に、化けて出たのがこの『 征司の姿をした金魚 』だった。
征司とふたりで"虹色の金魚"に生まれ変わったこいつを捜してやると約束をした。そのお陰で、諦めていた征司とよりを戻す為の行動を起こすことができたんだ。
だけど、未だにその約束は果たせていない。
こいつを捜してやるどころか、情けないことに征司との仲直りすら果たせていなかった。
金魚はそれを焦れて出てきたのか。
しかしこいつが目の前にいるって事はオレは実際は寝ってて、夢の中で会ってるんだよな? でも自分がいつ寝たのかを覚えていない。
と言うか、オレはさっきまで何をしてたっけ?
確かバスに乗ってたような……。
そうだ! また征司のお兄さんの家に征司を迎えに行こうとバスに乗り込んだんだ。
オレの部屋を出た征司が身を寄せてる征司のお兄さんの家は、高台の新興住宅地で見晴らしは最高なんだが、最寄りの駅からバスで30分という交通の便は最悪の場所だった。
そんなだから車で来た方が便利なんだが、お兄さんちの近くには駐車できる場所がないから公共交通機関を利用するしかなかった。
だからオレは電車とバスを乗り継いで征司の元へと通い始めた。
始めて迎えに行った日は門前払い。それでもめげずに次の週末にも訪ねて行って、何とか話を聞いてもらえるようにはなった。
だが、金魚を死なせてしまったことを謝って、それからその金魚が化けて出たなんて話は信じてもらえないかもとは思ったんだが、話してみたらやっぱりまったく信じてもらえず。
「そんな見え見えの嘘つくなんて最低」
――と、グーで頭を殴られた。
まあ当然と言えば当然の反応。
だけど本当なんだから仕方がない。オレだってどうせ付くならもっとマシな嘘を付くさ。
始めはただ怒っていた征司も、よく似た金魚を飼ってきて誤魔化すことだってできるのに、死なせてしまったことを馬鹿正直に打ち明けて、おまけにその金魚が化けて出たなんて話を二度三度と訪ねる度に繰り返すオレが、寂しさのあまりちょっとおかしくなったかノイローゼで幻覚でも見たと思いだしたみたいだ。
オレの話を信じてはいないけど、オレが心配だから戻ってやってもいいかも……という雰囲気になってきた。
予定外の方向だけどとにかく後一押し。今日こそは! と意気込んでバスに乗ったのまでは覚えている。って事は、オレはバスの中で居眠りをしていると言うことか。
ようやく今に至る状況が頭の中で整理できたオレは、金魚と向き合った。
「その、ごめんな。なかなかお前を捜しに行ってやれなくて」
「ううん。いいの。僕まだ生まれてないから。ふたりがまた仲良しになるまで待ってるから」
健気に微笑む金魚の笑顔のなんて可愛らしいことか!
征司もこんな風に笑ったら可愛いだろうに。とはいえ、オレは征司のいつもつんけんしているくせにたまに見せる照れたようなはにかみ笑顔に惚れたんだよな。
早くまたあの笑顔が見たいんだが、なかなか上手くいかない。だけど諦める気はなかった。
「もうちょっと待っててくれな。必ず征司と仲直りするから」
「うん。待つのは平気。征司さんと一緒にいつもあなたを待ってたから」
無邪気な金魚の言葉がぐっさりと胸に痛い。オレはそんなにいつも征司を待たせてたのか。
「あー……征司って、そんな毎日オレのことを待ってたわけ?」
「毎日じゃないけど……あなたのお誕生日の日は、征司さんすっごく待ってた」
「え? オレの誕生日って、今年のか?」
ちょっと俯いて上目遣いで言いにくそうに話す金魚の言葉が嘘とは思えないが、オレの誕生日ってもう随分前に過ぎてるが、征司は何のお祝いもしてくれなかったぞ。
オレは征司の誕生日は覚えてて一緒に食事に出掛けたけど、自分の誕生日なんて気にしてないと言うか忘れてたからどうでもいいが、征司も何もしてくれなかったんだから忘れていたはずだ。
「待ってたけどあなたは帰ってこなくって、12時を過ぎちゃって、もうお誕生日の日じゃなくなっちゃったから征司さんはケーキをあなたの分も、2つとも食べちゃったの」
「うわ……あの征司がケーキを2つかぁ」
それはマズい。オレは頭を抱え込んだ。
征司はオレと違って甘い物があまり好きじゃない。それをやけ食いするほど怒ってたのか。
そう言えば征司が一時期やけに機嫌が悪い時があったが、このせいだったのか。
鈍すぎるぞ、オレ……
「あ、あのね、征司さんだけじゃないの! 僕もちょびっとだけ貰っちゃったの。黄色いスポンジの所。とっても甘くてふあふあで美味しかったの! でもね、赤い苺も欲しかったけどそれは貰えなかったのがちょっと残念だったの」
オレがケーキを征司ひとりで食ったことを怒ってるとでも思ったのか、金魚は手をばたつかせながら慌てた様子で征司を庇い始めたが、あんまり慌てたせいか話が明後日の方向に進んでいったのがおかしくて笑ってしまう。
「あはは、そっか。金魚は苺が食ってみたかったのか。食っても大丈夫なんなら今度食わせてやるよ」
「ホント? ホントに?」
「ああ。でも、ちゃんと征司に金魚が苺食っても大丈夫かどうかって訊いてからだぞ」
「ありがとう! 大好きー!」
満面の笑みで金魚はオレに抱きついてきた。冷たい身体がひんやりして気持ちいい。オレも金魚を抱きしめた。
見た目は征司だし、中身も征司の可愛がってた金魚なんだから浮気にはならないだろうけど、何だか少し変な気分だ。こっちの征司も可愛いなぁなんて……
だけど、やっぱりオレの征司はこの子じゃない。早く征司の所に行かなくちゃ。
そう思って、俺の胸に縋るようにくっついていた金魚をそっと引き剥がすと、オレの膝にパタパタと雫がこぼれた。
「金魚? どした?」
金魚が泣いてる? 何でだ。オレは突然のことにただ狼狽えて、金魚の肩を掴んで俯いて泣いている金魚の顔を覗き込んだ。
「あなたのことが大好きなの。でもね、だけどね……僕、征司さんも好きなの。だから、だから連れて行けない。一緒にいたいけど、駄目なの。あなたは、征司さんのものだから」
「だからさ、探してやるよ! きっとお前を見つけてやるから。またみんなで一緒に暮らそう」
「きっとね」
狼狽えつつも何とか泣きやまそうと慰めるオレの言葉に、金魚は泣きながら微笑む。
何でそんなに切ない顔をするんだよ。オレはそんな金魚が見ていられなくて、また腕の中に抱きしめた。
「俊太郎」
金魚がオレの名前を呼ぶ。
この冷たい身体から出る声が、何でこんなに熱いんだ。
「俊太郎……」
寂しげで悲しい声が胸に切ない。
オレの頬に、はらはらと涙の雨が降ってくる。
金魚も涙は温かいんだ。
あれ? でも何でだ? オレは金魚を抱きしめてるはずなのに、何で金魚の涙がオレの頬に当たるんだ?
声も何か遠くの方向から聞こえるような――
「俊太郎」
声を頼りにぼんやりとした意識に霞む目を何とかこじ開けると、金魚は横たわるオレの顔を覗き込むようにして泣いていた。
抱きしめていたはずなのにどうして? それにオレはいつ横になんてなった?
とにかくオレの名前を呼びながら泣いてる金魚をもう一度抱きしめようと、手を伸ばそうとしたとたん体に激痛が走った。
どこというか、そこら中が痛い。おまけに動かそうとした右手がまったく動かない。
どうもオレはベッドに寝かされているらしいが、状況がよく分からない。
「せ……じ?」
「俊太郎?」
声もかすれて上手く出ない。と言うか、しゃべろうとするだけで身体のあちこちが痛くて腹に力が入らない。
何がどうしたのか分からないまま、かろうじて動く左手を征司に向かって伸ばすと、その手を征司がしっかりと握りしめた。
温かい。金魚じゃない。征司の手だ。
「俊太郎! 目ぇ覚めたのか。よかったー」
金魚と違って温かい征司の手。だけどさっきの金魚みたいに泣いている。
何で泣いてる? オレが誕生日に帰ってこなかったからか?
「征司……ケーキ……ごめんな」
「え? 何? ケーキって……腹減ったのか?」
「違う。ああ、苺って金魚に食わせても……大丈夫なの、か?」
金魚とさっき話してたことだが、征司にとっては突然振られた話だからついて行けないらしい。当然のことなんだが、何だか頭がズキズキ痛んで上手く考えられない。
征司と、さっきまで一緒だった金魚の区別がつかない。頭が上手く働かなくて、思いついたままにしゃべってしまう。
オレは一体どうしたんだろう?
だけど征司はオレ以上に混乱したのか、オレの手を握りしめたまま顔を強ばらせた。
「苺って? ……俊太郎? 何の話しだよ。何言ってんだよ! あの、看護婦さん!」
振り返って叫ぶ征司の声に、若い看護師さんがやって来て「先生! 山野さんの意識が戻りました」なんて言ってる。まるでドラマみたいだ。
現実感のないこの状況と、どこが痛いのかよく分からないくらいにあちこち痛い体に戸惑う。
ただ征司が泣きはらした赤い目をしているのが可哀想で手を握っていたかったけど、オレ達は飛んできた医者に間に入られ引き離されてしまった。
「怪我による一時的な記憶の混乱だと思いますが……山野さん、あなたのお名前と生年月日を言ってみて下さい」
困惑しながらも、取りあえず医者の質問に答えていく。その内にだんだんと意識がはっきりしてきた。
だけど、やっぱり何故こうなったのか、いつここに来たのかは思い出せない。
医者の質問に答えながら辺りに視線を巡らすと、オレが寝かされているのは絶え間なく小さな電子音が響いている白い室内のベッドの上だと分かった。
ここって、病院だよな。しかも集中治療室ってヤツ? 何で、いつの間にこんな所に?
「あの……オレ、何で……」
「お前が乗ってたバスが事故で、横転して……お前、道路に放り出されたんだ! それで意識不明の重体ってニュースで見て、オレ……お前の名前、ニュースで見たとき心臓止まりそうになったんだぞ」
一通りの問診を受け終えて、今度はオレからの質問に、看護師さん達の後ろでずっとオレを心配そうに見つめていた征司が涙声で答えてくれたけど、その事故とやらの記憶は全然ない。居眠りした状態から意識不明までノンストップで行っちゃったんだろう。
そして、金魚が起こしてくれなかったらオレはそのまま――
ごめんな、金魚。お前のことも大好きだけど、オレはやっぱり征司が好きなんだ。
オレは医者や看護婦が去った後も、ベッドサイトにしゃがみ込んで寄り添ってくれる征司を見つめた。
「それで、来てくれたんだ」
「来るに決まってんだろうが! どんだけ心配したと思ってんだ、このボケ! 全身打撲に右腕と肋骨一本骨折くらいで意識不明になんてなってんじゃねーよ」
ああ、この愛に溢れた容赦のない毒舌。確かに征司だ。
「本当に、大丈夫だから」
「そうだな。開口一番ケーキだの苺だの……腹が空いてるのか?」
「いや。オレの誕生日にお前、苺ショート買ってきてくれてたんだな。オレすっかり自分の誕生日忘れてて。帰れなくてごめんな」
「え? な! 何言ってんだよ。知ってたのかよ……」
「いや、さっき知った。オレ、何にも知らなくて。征司を散々待たせてたから、罰が当たったのかもな」
「何だよ気持ち悪いな。さっきって、いつ……誰に聞いたんだよ」
「金魚から聞いた」
「またそんな……」
呆れと心配の入り交じったような表情でオレを見つめる征司に、大丈夫、おかしくなんてなってないと笑いかける。
「オレの誕生日祝いのケーキ、ひとりでって言うか、金魚とふたりで食べちゃったんだって? お前も結構、金魚にめちゃくちゃなもん食わせてたんだな」
「え?」
「でもスポンジの部分しかくれなかったって、金魚怒ってたぞ。苺も食べたかったって」
「本当に? ホントのホントに金魚が? でも、でも……でも、そんなの知ってるのはマルだけ、だよな……」
まだ半信半疑の様子だったが、ひとり、いや、金魚とふたりだけの時の出来事をオレが知っていることに、本当かもしれないと信じ始めてくれたらしい。
「あの金魚、マルって名前だったのか」
「うん。友達が金魚掬いで取ってきたのをもらってさ。最初はちっちゃかったから"チビマル"って呼んでたんだけど、デカくなったから"チビ"は取って"マル"にしたんだ」
今頃になって、オレは金魚の名前を知らなかった事に気付いた。
今度会ったらちゃんと名前で呼んでやろう。今度は夢の中でじゃなくて、現実で会って。
虹色の金魚に「マル」と呼びかけてみよう。そしたらきっと七色のしっぽを振って餌をくれとやってくるだろうから、苺を食わせてやろう。
「よし! じゃあ虹色金魚探しには苺を持って行こう。見つかったらすぐ食わせてやれるように。つーか、苺で釣ったら釣れるんじゃないかな? あいつ食いしん坊だし」
「あ、でも金魚に苺なんて食わせていいのか?」
「多分、大丈夫」
多分って何だ。きっぱりと、だか適当な征司の答えに不安になったが、本人、いや本魚が食べたいと言ったんだから大丈夫かな?
「でも、釣るってどこでだよ」
「金魚だから淡水だろう。池か、湖か……とにかくまずは国内から探そう。沖縄とか南の方にいそうだよな。イメージ的に」
「そうだな。南国ってカラフルな魚が多いもんな」
オレの話を信じると決めたら虹色金魚探しに俄然乗り気になったらしい征司は、もう計画を立て始めた。
この機を逃すまいと、オレも積極的に話に乗る。
「でもオレ、この怪我で今年の有給は使い切っちゃう気がするから、遠出は無理かも」
「ったくしょーがないなあ。それにその手じゃ何にもできないだろ? しょうがないから……戻ってやるよ」
征司は自分でも戻るための理由をわざわざ付けちゃう事に照れているのか、はにかむように笑った。
ああ、この笑顔だ。やっぱり征司の笑顔は一番だ。
「て事は、お風呂も一緒。トイレも一緒?」
「調子に乗んな」
「イッでぇ!」
久々の征司の笑顔にテンションが上がってふざけてしまったオレは、いつものように容赦なく頭を叩かれた。
一応頭に包帯は巻かれてないみたいだから外傷はないらしいけど、まだ痛むのにひどい。
「ああっ、つい! ごめん! ヤバ、マジでごめん!」
「うう……やっぱり金魚の方が良かったかもー」
そんな事が痛む頭をよぎるけど、必死の様子で謝ってくる征司はやっぱり世界一愛しくって。
だけど、だから―― ふたりで虹色金魚の「マル」を探しに行こう。
お前はオレ達ふたりの、大切な宝物だと言ってやるために。