ご主人様に捕らえられてここに来た。そして、今は彼に囚われている。
「こっち来いよ」
いつものように強引に抱き寄せようとする男の腕から、そうそう好きにはさせないとばかりに彼はするりと逃げた。
少し距離を置いて振り返ると、男は追っては来ないが不満を露わにして青い瞳で彼を見つめる。
眉間に皺を寄せて睨んできても、そんな表情すらも美しい。白銀の髪にしなやかな肢体をもつ男。
彼はいつもこの男と一緒だった。ご主人様がくるより他は訪れる者もない、閉じられたこの空間で。
だけれど今は違う。――新しい仲間が連れてこられたのだ。
その子は凍り付いたように扉の前にじっと座り、そのドアノブが動いて扉が開くことだけを待ち望んでいる。
「ねぇ、君もこっちにおいでよ。一緒に遊ぼう」
声を掛けても返事もしない。それどころかわざとらしくツンとそっぽを向いて、声をかけた彼を無視する。
「ねぇってば」
それでもめげずに近付こうとした彼は、噛み付かんばかりの勢いで睨み付けられて立ちすくむ。
その子は、黒に栗色のメッシュの入った柔らかな癖毛に、身軽そうな小さな身体だったが、警戒心も露わに彼を見つめるアンバーの瞳はあどけない程に大きい。
その首には彼らと同じような首輪があったが多少デザインが異なっており、何よりそこに刻まれた所有印は彼らの物とは違っていた。
だけれど、これからここで一緒に暮らすことには変わりのない仲間。初めての環境に神経を尖らせている栗毛の子に、彼はめげずに何度も声を掛ける。
「こっちのラグの上の方が気持ちいいよ?」
「んな奴放っとけって」
仲良くしたくてうずうずしている彼とは裏腹に、白銀の男は素っ気ない。
「あなたがそんな態度だから、あの子が怖がっちゃうんじゃない」
「元々ひねてるだけだろ」
栗毛の子はここに連れてこられてから何も話さず、何も口にしていない。
――かつての自分のように。
彼にはその小さな新入りが、始めてここに来た当時の自分のように思えて放っては置けなかったのだ。
「お前は俺のなんだから、他の奴なんて構うな!」
だが白銀の男はそれが気にくわないようで、イラついた様子で語彙を強める。
「僕がここに連れてこられたときはあんなに優しくしてくれたのに、どうしてあの子にはそんなに意地悪なの?」
「だってそいつ、形は小さいけどきっとお前より年上だぜ? 下手すりゃオレより上かもな。おおかた飽きられて捨てられたのを、うちの優しいご主人様が引き取ったんだろ。それに何よりあいつは俺達と違って――」
「オレのご主人様はそんな人じゃない! しばらく留守にするからって、待ってろって言ったんだ! ご用が済んだら迎えに来てくれるんだから!」
自分のことより、自分の主を悪く言われたことが許せなかったのか、それまで二人を無視していた栗毛の子が、始めて声を上げた。
「よかった。ちゃんとしゃべれるんだね。あんまり何も話さないから、声が出ないのかと思っちゃった」
初めてまともにしゃべった新しい仲間に、彼は嬉しそうに話しかける。
「君の名前は何て言うの? 他にご主人様がいるなら、どうしてここに来たの?」
「……うるさい」
「君のご主人様は優しい? 君はどんなところで暮らしてたの?」
目も合わせずにぶっきらぼうに呟く栗毛の子に、彼はめげずに話しかけるが白銀の男がそれに割って入る。
「優しかったら、こいつを捨てるわけないだろ」
「捨てたんじゃないって言ってるだろ! このバカ!」
「バカとは何だ! このチビ!」
「やめてって! もう」
言い争うふたりを止めて仕切り直す。
「ねぇ、君のご主人様が帰ってきたとき、君が痩せていたら優しいご主人様がきっと悲しむと思うよ? それに、うちのご主人様が意地悪をして君に食事を与えなかったと思われるのは僕、嫌だよ」
「……そこまで言うなら、しょーがないから食ってやるよ」
彼の顔を立てて渋々という体だが、本当はお腹が空いていたのだろう。用意されていた食事をガツガツと息もつかずに掻き込みだす。
そんな様子もかつての自分そのままで、思わず笑ってしまう。
彼もかつては栄養不足で艶のない黒髪で、グリーンの瞳はいつも怯えておどおどとしていた。ご主人様や白銀の男と出会えたおかげで幸せになれたのだ。
今度は自分がこの小さな新入りを幸せにしてあげたい――そんな想いで見つめていた。
栗毛の子はあっという間に完食すると、ようやく顔を上げて息をつく。可愛い舌でぺろりと舌なめずりする、そんな様すら愛らしい。
「美味しかった?」
「まあな。いつもの食事と同じだった。オレのご主人様が用意してくれたんだ」
だから自分は捨てられてなどいないと主張する栗毛の子が、本当はご主人様を信じていても、少しばかり不安な気持ちを持っていたと感じさせ、気の毒になる。少しでも気分を引き立ててあげたくて話しかける。
「優しいご主人様なんだね」
「うん。優しくて、とっても楽しい人! おまえになら会わせてやってもいいぞ」
よほど好きなのか、主の話になると嬉々として乗ってくる。瞳を輝かせるその様子は、見ているこちらまで嬉しくなる。
だが、そんな二人の和気藹々としたやり取りが気に入らないのか、白銀の男はことさら乱暴に話に割って入る。
「よそのご主人になんて会うことねぇよ! 俺は別に会いたくねぇし」
「おまえには言ってない! おまえなんか、ご主人様に会わせてやらないからな!」
「煩い! こいつは俺のなんだから、俺と一緒にいればいいんだ! おまえも、おまえのご主人様もどーでもいいんだよ」
栗毛の子の側にいた彼を、本当は誰にも見せたくないし話すらさせたくないという態度で自分の腕の中に抱き込むように奪い取る。
「ちょっと。そんな言い方しないで。僕、あの子のご主人様に会ってみたいな。楽しい人なんでしょ?」
「何だよ! 俺よりこいつの言うこと聞くのか?」
二人を取りなそうとする彼に、なぜ自分の味方をしないのかと白銀の男が食ってかかる。
「こんな小さな子に意地悪をするなんて……そんな人は嫌い」
「嫌いだと!」
大人げない態度にちょっとお灸を据えようとしただけのつもりの発言だったのに、予想以上の怒りをかってしまったらしい。
彼は激昂した相手から慌てて逃げようとソファからテーブルへと飛び乗ったが、あっさり追いつかれ、足を掴まれその場に押し倒された。
いつもと違う、乱暴な手つきに恐怖を感じる。逃れようと身をよじれば、さらに強く縛められる。
「んっ、ね、いや!」
「俺から逃げるな!」
毎日見ていてもそのたびに美しいと思う青い瞳で睨みつけられ、ゾクゾクと肌が粟立つ。心臓が早鐘を打ち呼吸が乱れる。
「いっつも優しくしてやって……お前が嫌がることは、我慢してきたのに……なのに、俺よりこんな奴の方が大事なのか?」
耳をくすぐる囁くような声が、怒鳴られるより遙かに深く心に浸みてくる。それは恐怖とは違う得体の知れなさで、彼の身体を竦ませる。
「そんなんじゃないよ……ねぇ……怖いから、止めて!」
捉えられて、押さえつけられる。それでも、逃げられないのではなく、逃げたくない―― そんな風に感じる自分の心が怖い。
「止めろ! 嫌がってんだろ!」
「悔しかったらここまで来いよ。このチービ」
栗色の子は歯を剥いて威嚇するが、白銀の男は小柄なその子はテーブルに上れないと分かっていて挑発する。
「お前が降りてこい! この卑怯者の臆病者!」
「何だとこら。上等だ!」
売り言葉に買い言葉。栗毛の子の挑発にあっさり乗せられた白銀の男は、床に飛び降りるとその勢いのまま栗毛の子に体当たりを食らわす。
「ねえ、止めて! 止めてったら、ふたりとも。喧嘩しないで!」
「後から来たくせに、生意気なチビだ!」
「ヤキモチ焼きのかんしゃく持ち!」
取っ組み合った二人がソファにぶつかった拍子にクッションが床に転がり、敷物がくしゃくしゃになる。
「ねえ、止めてよ! そんなに散らかしたら、ご主人様に怒られるんだから。ねぇ……ねぇってばぁ……」
二人を止めようと床に飛び降りたが、そこにちょうど白銀の男が水の入った容器をひっくり返し、二人の間に入ろうとしていた彼は、もろに水を被った。
それでもケンカ中の二人はそんな彼に気づきもしない。口汚く言い争うのを止めない。
両方から無視された彼の黒い髪から水滴が滴り、その背後からは黒いオーラが吹き出す。
「もーっ! どっちもいい加減にして!」
「で、両方の鼻っ柱をスッパーン! ――と、言うようなことがあったに違いない。だから仕方がないことなのよ」
言いながら、訳知り顔でうんうんと頷く加奈子に、真里はげんなりと肩を落とす。
「ちょっと、人が真面目に謝ってるのに茶化さないで」
「いいんだったら。このくらい、怪我のうちにも入んないよ」
加奈子は、膝に抱いた黒と茶色の毛並みの小さなヨークシャテリアの背中を撫でながら、鼻の先にちょこんと付いたひっかき傷を見て笑う。
部屋のベッドの上には細身のしなやかな体つきの黒猫が、身体を伸ばして寝そべっている。その黒猫を、ヨークシャーと同じように鼻にひっかき傷を作った真っ白のペルシャが、ウロウロと歩き回りながらご機嫌を伺うように見上げている。
どうもひっかき傷の犯人は黒猫のようだ。
「本当にごめんね。怪我なんかさせちゃって」
ヨークシャーを預かっていたこの部屋の主、真里の方は申し訳なさそうに謝りながらヨークシャテリアの頭を撫でたが、ご主人様の加奈子はあっけらかんとしたものだった。
「そんな気にしないでよ。預かってもらえただけで、めちゃ感謝してるんだから。急な出張だったから、ペットホテルが取れなくて。無理言っちゃって、こっちこそホントごめんね」
一人暮らしの加奈子は年に何度かの出張の際にはペットホテルを利用していたのだが、今回は急に決まった上にちょうど連休で旅行に出る人が多い時期だったため、ペットホテルに空きがなかったのだ。
「仕事じゃしょうがないじゃない。チビちゃんは怪我させられて大変だったけどねー」
優しく撫でる真里の手を、ヨークシャーが気にするなと言うようにペロリとなめ、加奈子もからからと笑う。
「うちのチビ之介が悪いんだよ。ふたりの間を邪魔したりするから〜」
『チビ之介』と言うヨークシャーの名前を聞いて、馬鹿にしたようにぴしりとしっぽで地面を打ったペルシャに、それよりずっと小柄なヨークシャーが小さな牙をむきだしにして低い唸り声を上げ戦闘態勢に入る。
「――ニャッ」
そんな2匹が、黒猫の不快そうな低い鳴き声にぴたりと動きを止めた。
それに気付いているのかいないのか、小柄な黒猫はぷいとそっぽを向き、床に降りて歩き出しす。その後ろを、真っ白なペルシャ猫と栗毛のヨークシャーテリアがあたふたと追いかける。
「見て見て! ほら、女王様と愉快な下僕共って感じだよねー」
「あの子はオスだから、女王じゃなくて王様でしょ。大体あんた、自分のワンコも下僕でいいわけ?」
「いいよー、この際。萌えられれば何でも。って言うか、どー見てもうちの子も好きこのんで下僕になっちゃってんだもん」
自分を追う2匹を尻目に出窓に飛び乗った黒猫は、床から見上げる白猫とヨークシャーを、長いしっぽを優美にくねらせながら見下ろしている。
その様は確かに、玉座の女王様と敬虔な僕といった風情だ。
「……そりゃ……まあ、そう見えなくもないけど」
「ほ〜らねぇ。チビ之介ったら、うちではいばりんぼのくせに、隠れ下僕体質だったのね」
勝ち誇ったように胸を張る加奈子に、真里は脱力しつつも反論する。
「ただうちの子と仲良しになっただけでしょ。どうしてそう何でもかんでも萌えに変換すんの」
「私には自動萌え変換装置が標準装備されてるからさぁ」
「そのふざけた装置はどこに付いてんの? 引っぺがしてくれるわ!」
あんまりおバカな発言にキレた真里が、加奈子の首にホールドを掛けて締め上げる。そんな真里の怒りを静めようと、加奈子は懐柔策戦に出た。
「そーだ! 出張土産買ってきたから、一緒に食べよう! ブレイク、ブレイク! ね?」
じゃれ合うご主人達の騒ぎに紛れて黒猫のいる出窓に飛び乗ろうとする白猫に、ヨークシャーは行かせまいと体当たりをかます。
――そんな下界の騒ぎをまるで介さぬかのように、黒猫は優美に身体を伸ばして大きなあくびを一つこぼした。