囚われ

 目覚めるとそこは、彼にとってまったく見知らぬ場所だった。朦朧としているうちにここに運ばれたらしい。記憶が酷く曖昧だ。
 自分の寝かされている場所を確認すると、それは彼が今まで見たこともないようなふかふかのベッド。
 わずかにそっと首をもたげて柔らかな照明の中を見渡せば、そこは落ち着いたアイボリーの壁紙に包まれた部屋の中だと分かった。
 部屋の扉はぴったりと閉じられており、窓にもクリーム色のブラインドが下ろされ外の様子はうかがえない。
 凍るような外の寒さをまったく感じさせない空調の効いたこの部屋は、心地よく整えられている。
 その居心地の良さは今まで彼の居た環境とは違いすぎて、彼を尚更に落ち着かない気分にさせた。

(ここは、どこだろう?)
 方向感覚には自信がある方だが、狭く暗い檻の中に入れられていたせいで彼は自分が何処に連れてこられたのかまったく分からない。
 辺りを警戒しながらゆっくり慎重に身体を起こすと、手足を動かしどこも異常がないか確認する。
 手も足も問題なく動く。痛みもない。意識を頼りない物へとさせていた、気分の悪さも治まっていた。
 だが彼は、首に今までに感じたことのない奇妙な違和感を覚えた。
 そっと触れて確かめてみると、首に何かが巻き付いている。生理的な嫌悪感からとっさに手で振り払おうとしたが、それはわずかに揺れた程度で外れなかった。
 今度は両手で引っ張ってみたが決してきつくはないがその縛めは、どうしても外すことが出来ない。
 彼は得体の知れない恐怖と苛立ちに爪を立て、闇雲に首を振った。

「んなことしたって、そいつは取れねぇぜ。ご主人様以外にはな」
 突然掛けられた声に驚いて動きを止め、声の主を捜すべく視線を巡らせると、彼より幾分年上らしい男がフローリングの床に敷かれたクッションに肘を突き、くつろいだ様子で寝そべっていた。

「あなたは? ここはどこ? ……僕の首のこれは何なの?」
 少なくとも敵意は感じない相手に、彼はベッドを降りて距離を持ちつつも近づき、現状を把握すべく今の状況を訊ねてみることにした。
「まあ落ち着けよ。慌てたってどこにも行けやしないんだから」
 矢継ぎ早に質問する彼とは裏腹に、男はのんびりとした調子で答える。
「落ち着くなんて無理だよ。こんな、知らない場所で……ここはどこなの? どうして僕はここに……」
「ここか? ここはこれからお前が一生を過ごす場所さ」
「ええっ! 一生って、どういう事?」
「一生って、死ぬまでさ。諦めて早く慣れるこった。ちょっと狭いけど、案外快適だぜ? それに逃げられたとしたって、お前の首にそれが付いてる限り連れ戻されるのがオチだからな」
 一体何が自分の首に巻き付いているのか。彼は男の意味深長で不気味な言葉に、ゾッと全身の毛が逆立つのを感じて身震いした。その存在を探るようにそっと首筋の物に手を這わせてみる。
「それって……これ? これは何なの?」
「首輪だよ。ク・ビ・ワ。お前も見たことくらいあんだろ? そこにご主人様のアドレスが書き込まれてるんだよ。それが付いてる限り、お前はご主人様の物だ」
 首輪――それは捕らわれた者の証。自分が誰かの所有物になったというのか? 何故そんなことになったのか。
 彼は意識を失う前のこと、こうなった経緯を思い返そうと試みた。


 彼には家も家族もなかった。いつから、どうしてそうなったかも、理解できないほど幼い頃からそうだった。
 彼と同じような境遇の者達は少なからずいて、彼らは駅前などにたむろし恵まれた人々から施しを受けたり、時には隙を見て盗みをはたらいてはその日その日を凌いでいた。
 しかしここ数日は冷え込みが酷く人々は皆足早に去っていき、風を避けて壁際に踞る彼らに目を向けることはなかった。
 お陰で彼は、このところろくな食べ物にありつけていなかった。今日も朝から何も口にすることが出来ず、お腹がすいてすいて目が回りそうだった。

 そんな時、見知らぬ人から差し出された食べ物。普段ならその場で食べるような迂闊なことはしない。安全な場所まで運んで食べる。でも、そのときはもう動くことすら出来なかったのだ。
“食べなければ逃げることも出来ない”警戒する自分の本能にそう言い聞かせて、彼は目の前の物を貪るように食べた。それでようやく人心地付いたと思ったとたん、大きな手に背後から身体を掴まれ、狭くて暗い檻の中に放り込まれたのだ。
 全身でぶつかっても合わせ目に爪を立てても檻の戸を開けることは出来ず、彼はそのまま檻ごと乗り物に乗せられ運ばれたらしい。
 足元が浮いたような浮遊感やガタガタと続く振動に翻弄され、折角食べたものをはき出さないようにするのが精一杯で、彼は何も考えられなかった。
 ようやく檻の扉が開き明るい場所へと出されても、逃げるどころかふらついてまともに歩くことも出来なかったのだ。

 その後は――風呂に入れられた。
 残る気力を振り絞っての抵抗も虚しく、彼は花の香りのする泡で全身を隈無く洗われるという屈辱を受けたのだ。
 暴れた弾みに水を気管に吸い込んでむせ返り、意識が朦朧としてその辺りのことがあまり記憶にないのは幸いだった。
 湯から上げられた後はもう立つことすら出来ず、そのまま意識を失うように眠ってしまった。
 この首輪は、その間に付けられたのだろう。


 彼は記憶を辿りようやく今に至る経緯を思い出したが、疑問の答えは何一つ出ない。
 家無しの自分達の存在自体が気に入らず、姿を目にしただけで石を投げてくる者もいるほど嫌われているのは知っていた。でも、こんな風に快適な場所にわざわざ連れてきて、暴力を振るおうというわけでも無いだろう。
 それにしても、何故自分が目を付けられたのか。他の仲間に比べ、身体が大きいわけでも強くもなく、特に目立つ所など無いはずだ――
 考えれば考えるほど、彼には訳が分からなかった。
「僕はどうしてここに……」
「どうしてって、お前は飼われるために連れてこられたのさ」
 分からないことだらけで思わず漏れた彼の言葉に、男はこともなげに答えをくれた。しかし、その答えはさらに彼を混乱させる。
「飼われ、って?」
 信じられない思いで彼が男を見返すと、その首にも首輪が巻かれていた。きっと自分の首に巻かれているのも、彼と同じような物なのだろうと見つめてみる。
「あなたも捕まったの?」
「俺は買われてきたんだよ」
「買われて? そんな……どうして?」
「俺が美しかったからさ」
 男はにやりと不敵に笑う。
「いや、あの、買われたってことは、あなたは誰かに売られたの?」
 どこかピントの擦れた男の返事に、彼は質問の仕方を変えてみた。もしかしたら、自分も誰かの罠にはまって売られたのかもしれないと思ったのだ。
「俺は初めから売られるために生まれたのさ。世の中にゃそういう商売もあんの」
 それは彼の知らない世界の話だった。男の話を聞けば聞くほど状況は尚更に分からなくなる。
「欲しい相手を買えるなら、どうしてわざわざ僕を捕まえたりしたのかな? その、僕はあなたみたいに綺麗じゃないのに」
「お前も俺ほどじゃないけど、そこそこ見られるぜ。それにご主人様は、今度は黒髪のグリーン・アイが欲しいって言ってた。ちょうどお前みたいなな」
 男は自分に向けられた讃辞の言葉に気をよくしたのか、笑みを浮かべて起き上がり、親しげに彼に近づきその肩を抱き寄せた。
 肩に掛かった男の髪の滑らかな感触と、笑みを浮かべてのぞき込む瞳に彼はドキリとした。
 間近に見るアーモンド型の大きな瞳は、彼が今まで見たどんな空よりも美しい青。長く艶やかな髪は白銀に輝き、均整の取れたしなやかな肢体はまさに爪の先まで美しい完璧な姿だった。
 それに引き替え自分は……痩せこけた身体。艶のない髪。彼はみすぼらしい自分の姿から目を逸らすかのように俯いて目を閉じた。
「まあそうしょげんなよ。お前だって磨けばちょっとは綺麗になるさ。大体お前は痩せすぎなんだよ。アバラ見えてるじゃねーか。ま、ご主人様がすぐにふっくらの抱き心地のいい身体にしてくれるから心配すんな」
「そんな心配をしてるんじゃないよ! 気に入られたくなんてない。僕は元の場所に戻りたいんだ。どうすればここから出してもらえるの?」
「あのさぁ、何そんなに必死になってんの? ここの暮らしはいいぜ。ご主人様に美しい姿を見せて、喜んでいただくだけでいい。あくせく食い物を探す必要はねぇ。甘えた声の一つも出せば、美味しい思いが出来るんだぜ? 元いた場所ってのがここよりいい場所だったとは思えねぇんだけど?」
 そう言うと男は、彼の痩せた身体をまじまじと見た。
「それは確かに……その日食べるものにも事欠く暮らしだったけど、首輪なんて付けなくていいし、好きなときに好きな場所に行けたよ」
「ここにゃ自由がないってか? 自由で腹がふくれるわけでなし。ここでなら食い物の心配もなく好きなだけ寝てられる」
「そんなのって、退屈じゃない?」
「んだよ、ここじゃスリルがないってか? スリルが欲しいんなら、俺が与えてやる」
 男は彼に息が掛かるほど顔を近づけ、目を細め口の端を上げて意地の悪い顔を作ったが、そんな表情すらも美しい。
 彼の背中にぞくりと震えが走る。
「震えてんじゃねぇか。風呂に入れられてまだ身体が乾ききってないんじゃねぇの? こっちに来いよ。ここが一番暖けぇんだ」
 そう言うなり、男は今まで自分が寝そべっていたクッションの上に彼を引き寄せた。
 確かにそこは、エアコンの風がちょうど吹きかかる場所らしく暖かい。柔らかなクッションも、疲れた彼の身体を包み込むようにふかふかとして気持ちが良い。
 それでもなれない感覚に、おずおずとクッションの端に座って身を固くしている彼を、男は間怠こしそうに彼の首輪を掴んで自分の腕の中に抱き込む。
「な? 暖けーだろ?」
「う、うん……」
「ここのことは何でも俺に聞け。これからずっと、一緒に暮らすことになるんだからな」
 そんなつもりはない。隙を見て逃げ出してやる。そう思っても、彼は今のこの温かな心地よさには逆らえかった。
 彼もよほど子供の頃はこんな風に身を寄せ合って暖めあったこともあったが、大きくなってからはこんなことはなかった。
 懐かしい暖かさと、まだ乾ききっていない彼の冷たい身体をなでる男の手の優しさは心地よかった。
 考え方は違っても、同じ境遇にいることに変わりはない。不安な中に生まれたわずかの共通点にすがるように、彼は男の胸に顔を埋めて目を閉じた。




 その日も、彼は部屋の隅に踞って壁をじっと見つめていた。男は毎度のことに呆れながらも、いつものように声を掛ける。
「バカ。意地張ってないでさっさと食えよ。……食わないなら俺が食っちまうぞ」
「待って、食べるよ!」
 男の言葉にようやく食卓へとやって来た彼に、男は手にしていた皿を押しやってやる。
 彼がここに来てもう幾日か過ぎたが、彼は未だに主人が部屋に居る間は食事に手を付けようとはしなかった。
 それでももちろん、お腹が空いていないわけではない。食べたい気持ちを抑えて、主人が出て行くまで堪えているのだ。今日も主人が出て行ってから、ようやく食事に口を付けた。

 今までの、いつ邪魔が入るやもしれぬ状況にいた影響か、取られる心配がないと分かっていてもつい慌ててがっつく癖が抜けない。
 皿に顔を突っ込むようにして食事をかき込む彼を男は楽しい余興でも見るように眺めていたが、すべて平らげてようやく息をついて顔を上げた彼に近づいてきた。
「もうちっと落ち着いて食えよ。ほっぺたに付いてんぞ」
 そう言うなり、彼の口の端に付いた食べ残しをペロッと舐めた。そのまま座っていた彼にのし掛かるように覆い被さって、今度は逆側を舐める。
「も、もう取れたでしょ? 離してよ」
「食欲が満たされたら次は……決まってんだろ?」
 顔を近づけたまま意味ありげに囁く男に、彼は心底不思議そうに首をかしげる。
「決まってる……って?」
「ナンだよ。知らねぇのか? だったら、教えてやるよ」
 男は彼を床に押し倒すとその細い脇腹を捕らえて、思い切りくすぐった。
「やめてよ! くすぐったいよ」
 くすぐったさに笑い出す彼を、男はますます調子に乗ってくすぐる。

 お腹いっぱい食べて、危険の何もない暖かな部屋でじゃれ合って過ごす――夢のような日々。いや、夢に見たことすらなかった。

 本当に男の言うとおり、何もしなくても決まった時間に食事が運ばれる。
 しかし、彼は未だに男のように主人という人に媚びる気にはなれなかった。
 主人が彼らの部屋にやってくると、彼は隅にうずくまり壁を向いて、居ないものであるかのように気配を殺す。
 主人に身を任せる男の姿を見ることすら嫌で、目を閉じる。
 それでも彼の耳に、その身をいいように嬲られ男が上げる甘い声が聞こえてくる。それがこの場所の唯一にして最大の苦痛だった。


 一頻りくすぐり合うと、はしゃぎ疲れたのか2人ともクッションの上に寝そべる。
「お前もそろそろ慣れてきたみたいだな。その内ご主人様が居ても気にせず飯も食えるようになるさ」
 そのリラックスした様子に男は満足そうに微笑む。
「でも……僕はやっぱり人に媚びて生きるなんて出来そうもないよ」
「別に媚びろなんて言ってねーじゃん。ただご主人様が居ても普通に飯を食えばいいんだって」
「でも、でも、何にもしないのに食べ物だけもらうなんて……」
「お前はご主人様に媚びる必要なんてねぇよ。俺の側に居ればそれでいいんだ」
「そんなこと言ったって……それじゃ何で僕はここに連れてこられたのか分からないじゃない」
 ここのままでは捨てられる――そんな想いが彼の脳裏をよぎる。
 そのことが不思議だった。あんなにも逃げたかったのに。捨てられるのは望むところなはずだったのに。どうしてそんな風に思うのか。
 温かな寝床と食うに困らない生活。誰だって失いたくはない。それだけのことだ。彼は自分で自分に言い聞かせるように心の中で言い訳をする。
「大丈夫だって。心配すんなよ、な? お前は今のまんまでいいんだ」
 男は明るい調子で真剣に考え込む彼の肩をポンポンと叩く。
「どうして? 僕だってご主人様に……その、可愛がられるために連れてこられたんでしょ。でも、僕は可愛くないよ。綺麗でもないし」
「十分可愛いけど? 隅くたで丸まってるとまんじゅうみたいだし」
 それをして可愛いと言っていいものだろうか? と、彼は首をかしげる。
「お前はな、退屈してる俺のためにご主人様が拾ってきた――まあ、俺のおもちゃみたいなもんなんだよ」
「おもちゃ……」
 納得いかない様子の彼を励ますように、男はさらに明るく言う。
「お前は俺のなんだから、ご主人様のことなんて考えなくていい。俺と楽しく遊ぶことだけ考えてりゃいいんだよ。だからなんにも心配なんてすんな」

 彼は立ち上がると、訝る男を無視して窓に向かった。
 ブラインドの隙間から窓の桟の部分に潜り込むと、前から調べて見つけていた、窓の枠の柔らかいゴムの部分に爪を立てて思い切り引っ張った。
 ガリッと小さな音を立て、爪が表面を滑って小さな傷を作っただけで窓はびくともしない。しかし彼は、何度も何度も同じ動作を繰り返す。
「止せよ! 何やってんだよ。爪が痛むぜ」
 初めは新しい遊びでも思いついたのかとのんびりと彼の行動を見つめていた男も、むきになった様に同じ動作を繰り返す彼を次第に訝しみ止めに入る。
 男は彼の首輪を掴んで窓から引きはがそうとするが彼はやめようとせず、闇雲に隙間を求めて爪をねじ込む。
 男はその手を強引に腕を掴んで止めた。
「止めろって言ってんだろ! 爪が剥がれるぞ! どーしたんだよ? そこは鍵がかかっててご主人様じゃなきゃ開けられねぇよ。つーか、んなとこ開けてどうすんだよ」
「出てく。こんなとこ、居たくないよ!」
 彼の言葉に、男は驚きと同時に怒りを感じたように彼を睨んだ。
「お前……俺と居るの嫌なのかよ」
「僕はおもちゃじゃない! あなたの勝手に振り回されるのは沢山だ」
「何だよ、その言い方。好き勝手になんてしてねーだろ。さんざん可愛がって――いろいろ我慢してやってんのに」
 感情を高ぶらせる彼に釣られて、男の声も大きく険しくなる。そんな男から離れようと、彼は捉えれた腕を振り解こうとしたがびくともしない。
「我慢? 何をどう我慢してるっていうのさ!」
「『何をどう』だと? 例えばこんなだよ」
 言うなり、男は掴んだ腕を思い切り引いて彼を床に押しつけた。
 いつものじゃれ合いとは違う強い力に逆らえない。彼はそのままのし掛かろうとする男の身体を足で蹴り上げようとしたが、あっさりかわされた。
 その足を掴まれ、太ももの辺りまですうっと指を滑らされる。くすぐったいのだけれど、普段のくすぐり合いとは違った感覚に彼の頭は混乱するばかりだった。
「何? 何なの? 分かんないよ。止めてよ!」
 必死で抵抗する彼を無視して、男は全身で彼の身体を床に押しつけて動きを奪うと、彼の顔に自分の顔を近づけてきた。
 とっさに顔を逸らすと首筋に顔を埋めて噛み付くようにして舌を這わす。ぞくりとした感覚が背中に走り、彼はそれから逃れようと身をよじる。
 俯せになり、床に爪を立てるようにして男の下から這い出そうとするが男はそれを許さない。
「やぁっ! 痛いっ」
 首輪の下の項に歯を立てられ、悲鳴のような声を堪えきれなかった。
 その声に、男はようやく動きを止めると、彼の肩に顔を埋めるように突っ伏して大きく息を吐いた。
「ずっと、こうしたいのを我慢してた。……やっぱ泣くんだもん、お前」
 男は顔を上げると、彼の悲鳴と共に堪えきれずにあふれ出た涙を舌先ですくう。
「泣くな。このガキ。泣かれんのが嫌だから我慢してたのに」
「な、んで……僕が泣いたら……泣いたってあなたには関係、ない」
「俺が、見たくねぇの!」
「じゃあ、じゃあ何でこんなこと……触ったりとか、したいの?」
「お前、可愛いから。触りたい。どこもかしこも触って、自分の物にしたい」
 男の美しい青い瞳に見つめられて、彼は思わず顔を背けた。それでも彼の腕から逃げようとは思わなかった。
 男は彼を無理に振り向かせようとはせず、後ろからそっと抱きしめた。
「どこにも行かせない」
 答えることも、振り払うことも出来ない。
「……行かないでくれ」
 耳元に吹き込まれる、彼が今まで聞いたことのない切ない声に身体中の力が抜けていく。男はそのまま耳を甘く噛むようにして言葉を続ける。
「お前、可愛いぜ。ご主人様も可愛いお前を捨てたりしない。俺達はずっと一緒だ」
 彼は何と答えればいいのかも分からなくて、ただ首を横に振った。
「俺の言うことが信じられねぇのか?」
「信じ……たい。でも……」
「でも? 何だよ」
 耳元に顔を埋めたまましゃべられると、声の響きが熱い吐息と共に首筋にかかり漣のような震えが全身に走る。それが分かっているのか、男は彼の身体に手を這わせさらに波立たせる。
「も、離してよ! こんな事されたら、何にも考えられないよ」
「じゃあ、何にも考えるな。感じてろ。俺のことだけ感じろ。俺の側に居ろ」
「――側にいさせて。離さないでよ」
 男の胸に頭をすりつけるように身を寄せる彼に、男は抱きしめる腕にさらに力を込める。
「そういう可愛いこと言われると、今度は泣かせたくなってきたなー」
「えっ?」
「バッカ。冗談だよ。いじめねーよ。いじめないから、ずっとこうしていようぜ」





「……って感じだよね。あんたんちの猫たちって。血統書付きペルシャ猫と元野良の黒猫。萌えるわー」
「人んちの猫で何を妄想してんの。たたき出すよ。つーか、血統書付きの猫の方が言葉遣いが悪いっての、おかしくない?」
 猫たちのご主人様こと万里は、妄想をまくし立てる友人の加奈子を窘める――はずが何故か的確なツッコミを入れてしまっていた。
「その方が萌えるじゃん」
「だから、萌えるなっつーの」
「だーって、オス同士なのに仲良すぎ! あんなにくっついちゃって。いやーん、もっとくっついて!」
「あんた……うち出入り禁止にするよ」

 外野の喧騒をよそに、べったりくっついた猫たちの寝そべる日だまりでは、穏やかな時が流れていた――

(up: Jan.2007)

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