バレンタインデーには、一緒にチョコレートを買いに行く。
それは日高と俺の大切な決まり事だった。
今日はお互いが大学生になってからは始めて迎えるバレンタインデー。
今年は逆チョコとか言って、男の人からも女の人にチョコを送ろう! なんて新たなお菓子業界の戦略のお陰で男でもチョコレート売り場にも行きやすい気がするんだけど、やっぱり男ふたりでっていうのはちょっと恥ずかしい。
だからあまり人がいなさそうな午前中に買いに出掛ける約束をした。
風はあるけどそれほど寒くはない。日の当たる場所だと暖かいくらいのいい天気。
正面から吹き付ける風に髪をくしゃくしゃにされながら、急ぎ足で待ち合わせ場所のデパート前に向かう。
目的地まで後数メートルと言うところで、先に着いていた日高が俺に気付いて軽く手を挙げてくれたんで急いで駆け寄った。
「お待たせー」
「ううん。待ってなんかないよ。僕も今着いたとこ。今日は風が強いね」
日高は笑いながら、ごく自然に風で乱れた俺の髪を手櫛で梳いて整えてくれる。
こんな人前で何するんだ! と言うか近い。顔が近い!
このデパート前には待ち合わせの人とか、通りを歩いてる人がいっぱいいるのに。
「い、いいよ。こんなの。早く行こうよ!」
日高ってば、ただでさえ自分が人目を惹く容姿で目立ってるって自覚が無いんだろうか。
そんな日高の手を引っ張って、俺はその場を逃げるようにデパートに入った。
デパートの中は、思惑通りまだ空いていてあまり人がいなかった。
去年は人込みを避けて地下のスイーツ売り場で買ったけど、これならと今年は特設のチョコレート売り場に行ってみると、特設会場はエスカレーターを降りてすぐの場所で、かなりのスペースが割かれていた。
そこは見渡す限りチョコレート! どっちを向いてもチョコレート、という徹底したチョコレートのための場所だった。
会場中に漂う甘いチョコレートの香りと、やっぱりほとんどが女性客という場の空気にくらくらして、俺達は売り場をぐるっと一周しただけで早々にその場を退散した。
とは言え日高と一緒に色んなチョコレートを見て、試食なんかもさせてもらってしっかりと気に入った物が買えた。
俺は選りすぐりのチョコレートがたっぷり入った紙袋を持って、ご機嫌で会場を後にした。
「少し早いけどお昼にする? それとも何処か行きたいところでもある?」
「俺もうお腹空いたからお昼にしようよ」
「あんなに試食をしたくせに」
日高の提案に速攻で昼ご飯を選んだ俺に、日高は呆れたように苦笑いしたけどチョコレートなんて別腹だろ。
少し早い時間なら店もさほど混雑しない。今行くのがベストだろう。
それに、俺は日高にちょっと落ち着いて訊きたいことがあったんだよね。
普段なら昼食はファーストフード店とかですませちゃうけど、今日は特別な日。
せっかくだからちょっと贅沢にデパート内の店で食べることにしてレストラン街のある階に向かうと、やっぱりまだそれほど人は居らず、どの店も待たずに入れる状態だった。
いくつか店を見て回り、スパゲッティーが食べたいという俺の希望でイタリアンレストランに入ることに決めた。
店内はオレンジ色のライトと白い壁が柔らかい雰囲気をかもし出していて落ち着く感じ。まだあまりお客さんも入っていないせいか適度に静かで、ここなら落ち着いて話が出来そうだ。
話は落ち着いてゆっくりしたいから食事の後にすることにして、俺はひとまずは美味しいスパゲッティーを堪能することにした。
お互いの近況とかを和やかに話しながら食事を済ませ、食後のコーヒーが来たところで、俺は取り調べにはいることにした。
俺が訊きたいことっていうのは、俺にとっては大事なことなんだけど、日高にとっては些細なことなのかも知れないという微妙な話。
だから日高はちょっと俺に言い忘れてる、もしくは言うほどの事じゃないと思ってるのかもしれない。
まずはその辺の日高の認識が知りたくて、俺は直接質問せずにまずは日高が自主的に話してくれないか水を向けてみた。
「なあ日高。俺に何か言い忘れてることってない?」
「何かって―― 聡、愛してるよ」
「なっ、こんなとこで何言うんだよ!」
思わす大声を出しそうになって慌てて声のトーンを落として周りを見渡したが、隣のテーブルの人は談笑しながら変わらず食事を続けている。
隣に聞こえてないなら周りにも聞こえてないよな。あー焦った。
「今日はまだ言ってなかったなと思って。違った?」
そんな事じゃないって分かってて言ってる。日高の悪戯っぽい余裕の笑顔が憎い。
「そうじゃなくてー、何か教えたいって言うか報告したいこと、ない?」
なかなか本題を話さない俺に、日高は不審そうに首をひねった。
「何? どうしたの? ……この間の台湾土産が気に入らなかった?」
「お土産は気に入ったからいいんだ。でもちょっと話が近付いた」
日高は年末に台湾に出掛け、お土産に月餅と烏龍茶を煎れるティーセットをくれた。
白い磁器のカップとポットのセットは母さんがいたく気に入り、最近は毎晩の食後のお茶はこれだ。
と、それはともかく遠からずとは言え当たっていない話題に焦れて身を乗り出す俺に、日高は困った顔で考え込んだ。
「何だろう。撮ってきた写真は見せたし話も全部したと思うけど……まさか君、僕が向こうで誰かと浮気でもしてきたと思ってる、なんてことはないよね?」
「それはない」
迷った挙げ句か、珍しくトンチンカンなことを言ってきた日高に速攻で首を横に振った。
日高が浮気するなんて、シャーロック・ホームズが依頼人をナンパするのと同じくらいありえないだろ。
「じゃあ何?」
「見たよ。サイトの記事」
「あ! あれは……あれを見たの……」
日高がまったく思いつかないみたいだから一言だけヒントを言ってみた。
ほんの一言だったけど、日高もそれでピンと来たみたいだ。
これは些細なことだから言わなかったんじゃなく、知られたくなくて黙ってたって感じだな。
「何で大学のサイトに取材記事が載るって事、教えてくれなかったんだよ」
日高が去年の暮れに台湾に行ったのは、大学の教授のお供で学会に参加するためだったんだ。
その学会は誰でも連れて行ってもらえるものじゃなく、ゼミの中でも連れて行ってもらえたのは成績の良い日高ともう1人だけだったらしい。さすがは日高!
それでその時の事が、大学のサイトの研究活動発表みたいなページに掲載されてたんだ。
俺はそれを何となく日高の大学のサイトを観に行って偶然見つけた。
ちゃんとインタビューとか入ってたからサイトに掲載されることを日高が知らなかったはずがない。
それなのに日高はそれを俺に教えてくれなかった。
日高は俺には陸上の活動とかで、ほんの2〜3行ほどの情報でもサイトや雑誌に載るなら知らせてくれって言うくせに、自分が掲載されるときは黙ってるなんてずるい。
俺は日高のことなら何でも知っていたいのに。
「だってあんなのほんのちょっとだし……それに、変な写真が使われちゃったから恥ずかしかったんだよ。webに上げる前に内容の確認はさせてもらったけど、その時はここに写真が入るって説明だけで、どの写真が使われるのか知らなかったから……知ってたら違うのに差し替えてもらったのに」
「ええ? 何で? いい写真だったじゃない。ちゃんと格好良く写ってたよ?」
日高は整った顔立ちの上に、俺と違って鼻筋が通ってるせいか顔にメリハリがあって、実物もいいけど写真写りもいいんだよね。
サイトの写真もすっごく格好良かったのに、そんな理由で俺に内緒にしてたのか。
「嫌だよ、あんなカメラ目線って言うか、恰好付けてるみたいな写真……」
「日高はどんな角度から撮っても格好いいんだからいいじゃない。これからも取材とか来たらガンガン受けちゃいなよ!」
俺が知らない大学内の日高が見られるチャンスは逃したくない。
あのインタビューを受けてた日高の写真もちゃーんとHDに保存したし、プリントアウトもしちゃったもんね。
「取材なんて本来僕には縁のない話しだし、もう受けないよ」
「ええー、そんなぁ」
「それより、取材と言えば今月発売のタウン誌のインタビューで、聡ってばインタビュアーに足を触らせていたよね。あれ、駄目だよ」
「え? 何で?」
突然話が俺の事にすり替わってしまった。
それで誤魔化そうとしてるのかと思ったけどそうでもないらしく、日高の顔がちょっと怖い。
何だろう? あのインタビューって何かまずかった?
『すごい筋肉ですねー』みたいな話の流れで、おばさんの記者にちょっと触られただけなのに。
記事の内容も俺のこと誉めてくれてて、日高が怒るようなことはなかったと思うんだけど。
俺は記者の人に触られたときの感じを再現して、日高の太股の辺りにポンポンと軽く手を置いた。
「記者は女の人だったし、触るったって全然いやらしい感じじゃなくて、こんなポンポンって感じだったんだよ?」
「ちょっ、聡! こんな所で」
「日高ってば大げさー」
ビクッと身体を強ばらせた思わず笑い出した俺だったが、日高は眉をひそめてすごく嫌そうな顔をした。
もしかして日高ってば、俺が脇を触られるのが嫌なのと同じで足を触られるのが嫌いなのかな? その割りには自分は俺の足によくキスを―― 駄目だ。これは日中の外出先で思い出すような話じゃない。
「そろそろ出ようか?」
「あ、そうだね。混んできたみたいだもんね」
何だか妙な雰囲気になってしまった俺達は、レストランを出ると他にどこにも寄らずそのまま帰ることにした。
帰ると言っても、俺は自分の家へではなく日高の部屋へ行くんだけど。
日高は1人暮らしだからいつでも泊まりに行けるなんて思ってたけど、実際に大学生活が始まってみると、休みの日でも俺は陸上の練習があるし日高も研究だか実験だかがあって忙しく、そんなにしょっちゅうは日高の部屋に遊びに行けなかった。
今年に入ってからも、泊まりがけで遊びに行けたのはお正月休みの2日間だけ。
それで久しぶりだから……って気持ちは分かるんだけど、玄関を入ってすぐに俺は日高に壁に押しつけられてキスされた。
何だか既視感があるなあ、このシチュエーション。
なんて落ち着いてる場合じゃないな。
「あの、ちょっと日高」
唇から首筋へとキスを落としていく日高を押し戻して止めようとしたけど、足の間に足を割り入れられてさらに密着された。
そのまま日高は片手を俺の腰に回して抱きしめながら、もう片方の手でお尻というか、足の付け根当たりに手を当ててゆっくりと上下させ始めた。
「あ! やっ……て、何だよ、日高ってば!」
これは真剣にやめさせないと。まだ外も明るい時間に、それもこんな玄関先でなんて嫌だぞ。
そう思っても手には大事なチョコレートが入った紙袋を持ってるから動きにくい。
これを地面に落とすなんて嫌だ。
うまく動きが取れない俺を無視して日高の手はどんどん俺を追い詰めていく。
「あっ、うっん……」
「知ってる? 脳の中で足の感覚は性器の感覚のすぐ上にあるんだよ。だから、足は性器の次の性感帯みたいなものなんだから、僕以外の人に触らせちゃ駄目だよ」
「何で、何で日高そんなこと知ってるんだよっ」
「神経科学者の本で読んだんだ」
ああ、性感帯がどうのこうのなんてこんな知識も、エロ本じゃなくて何やら難しそうな本から得てくるんだから、さすが日高。
なんて感心してる間にも、日高の手は俺の太股の内側を丹念になで上げてくる。その刺激はジーンズ越しにもざわざわ感じて声が抑えられない。
「あ、んっや! ちょっと、日高ってば! ああっ」
日高にならどこをどう触られたって構わない。だけど、だけど時と場所くらいは選ばせてくれ!
だけどそんな俺の囁かな願いを無視して、日高はダイレクトに一番感じる場所に触れてきた。
「や、ああっ―― いてっ!」
突然玄関にゴンっと派手な音が響いた。
何の音か一瞬分からなかったが、それは俺の後頭部が壁に激突した音だった。
日高の手に反応しちゃって反り返ったはずみに打ち付けたみたいだ。
あまりに突然のことに、自分の身に起きたことなのによく分からなかった。
「聡! ごめん、大丈夫? 見せて」
驚いて打ち付けた頭に手をやったまま固まっている俺と違って、素早く事態を理解したらしい日高は、打った箇所を見ようと俺の首筋に手を添えて俺を俯かせようとしてきた。
「大丈夫。全然大丈夫だから。あ! ああ、よかった」
「え? 何が?」
「チョコレート、落としちゃったかと思ったんだ」
今のはずみで手に持っていた大事なチョコレートを落としたかと思ったけど、俺の手はしっかりと紙袋の持ち手を握っていた。お手柄だぞ俺の手。
「聡、そんな物より――」
「そんな物じゃない!」
「え?」
「“そんな物” じゃないだろ、これは」
戸惑う日高の目の前に、俺はチョコレートの入った紙袋を付きだした。
俺達にとって一番大切な思いでの日の象徴を、そんな物呼ばわりは許さないぞ。
「そうだね。ごめん」
そんな思いで日高を見つめる俺に、日高は素直に謝ってくれた。
「それで、その、頭は? 大丈夫?」
「大丈夫。俺、石頭だもん」
音は派手だったけど別にコブにもなってなさそうだし、そんなに痛くもない。
でもまだ心配して俺の後頭部をさすってくれる日高の手が嬉しくて、そのまま日高の方に頭をもたげて身体を預けた。
日高のサラサラの髪が頬に当たって気持ちいい。
「それにさ、せっかくの今日なのに、こんな所でするのは嫌だよ」
「うん。ごめんね。じゃあ、ベッドへ行こう」
「え? いや、その……」
まだ外は明るいし、大丈夫とは言え俺はさっき頭を打ったばかりなのに。
「しばらく安静にしておいた方がいいから早く横になって。一応濡れタオルで冷やしておくといいかもしれないね。――何? どうしたの?」
「日高ーっ!」
ベッドへ行こうなんて、わざと俺が誤解するような言い方をしてからかったな!
忍び笑いを漏らしながら俺を見つめる日高を睨み返すけど、日高は全然怯まない。
「夜までにはよくなってね」
笑顔でまた俺の頭を抱え込んで髪にキスしてくる日高に、俺は溜息を吐くしかなかった。
何を言われても、何をされても逆らえない。
だって俺は、そんな日高が好きなんだから。