「桜ぁ咲い〜たぞ。花見〜も、終わった〜」
即興の歌を口の中で小さく口ずさみながら、良い加減に微酔いの彼はとうに終電も終わった夜道をひとり歩いていた。
毎年恒例の新社員の歓迎会を兼ねた花見の帰り。春とはいえど日が落ちるとまだ少し肌寒い季節だが、酔いが回って火照った彼にはちょうどよい。
時折雲間から顔を出す朧月を眺めながら、ぼんやりとのんびりと歩いていく。
そんな彼を桜の花びらが取り巻いて、足を止めさせる。
「ああ、こんなとこにも桜の木があったんだ」
舞い散る花弁に釣られて辺りを見回すと、道から少し高台になった空き地に立派な桜の樹が佇んでいるのが見えた。
この辺りはほぼ毎日見ていたはずだったのに、気付かなかった。
普段は通勤電車の窓から眺めていただけのありふれた街の風景を、彼は改めてゆっくりと見た。
落花の風に髪を嬲られながら、彼は街灯に照らされた桜を眩しげに目を細めて見上げる。はらはらと散る花弁に手を伸ばすと、一片二片と彼の手の中に降ってくる。髪にも服にも――
彼はその花弁に誘われるように土手を上って桜に近づいた。
近くで見ると黒々とした幹は節くれ、根はうねりながらしっかりと大地を張っていた。
「見事な樹だねぇ」
見上げる彼に、桜に、また夜風が吹き付けて花弁を舞い散らす。この風で桜はあらかた散ってしまうだろう。
「明日ありと 思う心の徒桜(あだざくら) 春に嵐の――あれ? 違うなぁ……花に嵐の……だったかな? んー、明日ありと……」
「明日ありと 思う心の徒桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは――ですか?」
「そうそう。それそれ!」
突然彼の言葉を受け取って続ける声に、彼は思わず驚くより先に相づちを打ってしまう。
「親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお詩ですね」
声の主は、桜の樹の陰から出てきた若い男だった。
物静かそうなその男は、口調も穏やかで酔っぱらいには見えない。彼のように花見帰りの酔っぱらいではなく、眠りそびれた春の夜に、桜に誘われてふらりと散歩に出たという風情だ。
「あなたも夜桜見物ですか。風雅ですねぇ」
元々人見知りしない彼は、まだ醒め切らぬ酔いも手伝って突然現れた男に気さくに話しかける。
「ええ、まあ……そんなところです」
「公園の方の桜は終わりかけでしたが、ここの桜は今が満開ですねぇ」
「ここはビルに日が遮られて日当たりが悪いですから」
男はこの辺りに住んでいるのか、桜の風情に水を差すように隣にそびえ立つビルを眉を顰めて仰ぎ見た。
街灯に浮かぶ桜の花は幻想的だが、その周りには家やビルが建ちおよそ風情とはかけ離れた風景だ。
「この辺りも変わってしまいました。昔はここら一帯は桜並木だったんですが」
そこだけが日常から切り取られたように昔のままの桜の樹を、男は寂しげに見上げている。
彼も隣に立って同じように見上げる。
「それにしても花付きがいい立派な樹ですね」
「この桜も、今年で咲き納めですから。――桜も分かっているのでしょう」
「ええ? 何でです?」
「ここも宅地になるそうです」
わずかばかりに残された桜の地も、人から見ればただの空き地。遊ばせているのは勿体ないというわけか。彼は残りわずかな命を花に替えて咲き誇る樹の幹にそっと触れた。
「勿体ないな。せめてこの樹は残せばいいのに」
「大きすぎて邪魔なんだそうです」
「先に居たのに邪魔の一言で殺されちゃ堪んないよな……可哀想に。こんなに綺麗なのにな」
彼はゴツゴツとした幹を労るように撫でた。
男も同じように近づくと、幹に白く細い指先をそっと触れさせる。
彼は身近に見る男の澄んだ白い肌に、鼓動が僅かに乱れるのを感じ慌てて取り繕うように笑みを浮かべた。
「人間や動物みたいに鼓動があるわけじゃないけど、生きている物なのにね」
「そうですね。でも樹は感情を表すことさえ出来ないですから」
「でも精一杯咲いてるじゃないですか。生きてるのが嬉しくて堪らないみたいに見えますよ」
男の諦めたようにはき出された言葉が寂しくて、彼は殊更明るく言った。
「貴方は、いい人ですね」
「え? いや、だって本当に綺麗ですよ」
桜に負けぬほど美しい笑みを向けられ、彼は気恥ずかしげに視線を彷徨わせると、また桜を見上げた。
男は、そんな彼をじっと見つめている。
風にまた花弁が舞い、彼の髪や肩に縋り付く。
「――せめて、この姿を貴方の心に留めてくれますか?」
「そうだな」
彼は桜を仰いでしばらくじっと見つめ、それからその姿を瞼に焼き付けるように目を閉じる。
その彼の唇に、そっと触れるものがあった。
「え?」
驚いて目を開けると、彼は桜にもたれその足元に座り込んでいた。辺りを見渡しても男の姿は影も形もなかった。
「……寝ちゃってたのか。酔っぱらいはしょーがないなぁ」
自嘲気味に笑いながら立ち上がろうとした彼の手から、桜の枝が一差し落ちる。
彼は屈んでそれを拾い上げると、桜の樹とその枝を交互に見比べて微笑んだ。
「ああ……何だ、お前だったのか」
微笑みながら桜の樹を見上げる彼の頬に、ほろりと花弁が舞い降りた。
「お袋、花壇に水をやるとき、こいつにもやっといてくれる?」
彼は春の日差しが眩しい庭に出ると、ガーデニングに勤しんでいる母親に向かって小さな植木鉢に挿した桜の枝を指差した。
「あら、昨日の花見で拾ってきたの? それはいいけど、こんな時期に挿し木しても根付かないんじゃない? 梅雨時分にした方が確実よ」
「大丈夫。こいつは根付くよ。――な?」
彼の問いに、春風に揺れる枝がそっと頷いた。