―― 不意に、目が覚めた。
はっきりとしない意識のまま床の中で頭だけ巡らせて辺りを見回すと、自分が見慣れぬ和室で横になっているというのは分かった。だが、彼にはここがどこだか、何故自分がそこにいるのかは思い出せなかった。
彼が居たのは、小さいながらも床の間のある和室。
壁際には、床を延べるのに邪魔になったのだろう座卓が立てかけてある他は、何の変哲もないありふれた和室。
しかし彼にはこの場所に見覚えが無かった。
やけに重く感じる身体を布団から起こしてみると、微かに頭痛がした。おまけに自分自身が発する酒の匂いに胸が悪くなる。
酒に酔って眠ってしまったらしいが、どこで誰と飲んでどうしてここに来たのか、酔いに霞む頭はいっこうにはっきりとしない。
「あー……ここ、どこだっけ?」
見渡す部屋の中は暗い。夜なのだ。
しかしその部屋の障子の向こう、窓の外からどこかぼんやりとした明かりが見える。
彼は吸い寄せられるように窓に近付き、障子を開けた。
「うわぁ……」
彼の目に飛び込んできたのは、桜。春の朧な月に照らされてそれ自体が白く輝いているように見事に開いた満開の花。
月の明かりで深い青に染まる大気の中に、くっきりと浮かぶ黒々として節くれた幹が年輪を感じさせる立派な桜の樹だった。
その樹の枝が風に揺れる度に白い花弁をはらはらと散らし、その一枚一枚が微かな月の光を弾いて輝きながら落ちていく。
その夢のような光景を口を開けたまま見とれていた彼は、その根元辺りから響く笑い声に、そこに人が居ると気付いて目線を落とした。
「あれ? 先輩? 何で―― あ! ここ、もしかして先輩の家ですか」
桜の樹の下に座りこちらを見て笑っている男の姿に、一瞬のうちに頭の中にかかっていた靄が晴れたように眠りに落ちる前の記憶が戻り、今の事態を把握した。
会社の夜桜見物という名の飲み会で、勧められるまま調子に乗って飲んでいた。
覚えているのはそこまでだったが、その後は隣で一緒に飲んでいたこの先輩に世話になったのだろうと想像が付く。
「すみません。俺、途中で寝ちゃったんですね。ここまでどうやって……タクシーか何かで連れてきてくれたんですか?」
「いや。家はあそこから近いから歩いて来た。お前めちゃくちゃ酔ってて自力で帰れそうになかったし、俺に引っ付いて離れないから仕方なく連れてきたんだ」
「うわちゃー、すみません! その辺、全然まったく記憶にないですっ」
普段から気さくで親しく接してくれているとはいえ職場の先輩に、絡んだあげく家まで付いてきて、布団まで敷いて寝かせてもらっていたのだ。彼は血の気が引く思いで頭を下げた。
「いいって、気にするなよ」
「本当にすみません――ん?」
彼は笑顔で慰めてくれる先輩の声とは別に、微かな笑い声が聞こえたのに驚いて顔を上げた。
そんな彼の様子に先輩も一瞬戸惑ったようだったが、にっこり笑うと彼を手招きした。
彼が招かれるままに庭に降りて先輩に近付くと、茂みの影になっていた場所にもうひとり人が居たのに気付く。
「あの、こちらの方は――」
「ああ、俺の花見友達だ」
先輩の紹介を受けて軽く会釈してきた青年は、外観では彼と同じくらいの歳に見えるが、落ち着いた雰囲気のせいか妙に年上に感じた。
どちらにせよその青年は美しかった。柔らかそうな焦げ茶色の髪に、桜の花を思わせる透けるように白い肌は、朧な月明かりの下で艶めいて見える。
「こんばんは」
「あ、え……ども」
年齢はおろか男であるのかすらも怪しいほど美しい青年の微笑みに、思わず見とれて狼狽えてしまった彼は、曖昧に挨拶を返すと取り繕うように桜を見上げて話を逸らす。
「しっかし、立派な桜ですねー。こんな桜が家にあるなら、わざわざ他に花見なんて行く必要ないですね」
「ああ。だから桜の季節はここで彼と毎晩花見さ」
そう言いながら何がおかしいのか俯いてくすくす笑う先輩に、青年も額を付けるように寄り添って微笑む。
春に芽吹き始めた緑の上に置かれた杯に、ふたりとも酔っているのだと分かっていてもドキリとするほどふたりの様子は親密で、恋人同士の睦み合いのように見える。
まだ酔いが残ってるのかと、思わず目を逸らして頭を振った彼に先輩が杯を差し出してきた。
「いえ、俺はもう……」
「まあまあ。迎え酒だ」
彼は元々酒好きだったし、それにこの見事な桜を眺めながらの花見酒と言うのはなかなか魅力的だったので素直に杯を受け取った。
「どうぞ」
彼の受け取った杯に青年が酒を注ぐと、その杯の中にほろりと一枚の桜の花びらが舞い降りた。
「おお、風雅風雅」
「ぐいっと一気にいけー!」
はやし立てる先輩に乗せられて、彼は桜の花びらごと一気に喉の奥に流し込んだ。
「くー、辛口ですねぇ。けど美味い!」
「良い飲みっぷりですね」
彼の飲みっぷりに青年も感心したように微笑み、さらに空いた杯に酒を注いだ。
「その前にご返杯を」
「まずは空けてください」
「そうだぞ。飲め飲め」
ふたり掛かりで勧められて杯を重ねた彼に、再び酔いが襲ってくる。
手に持った杯がひどく重く感じて持ち上げられない。
「こら、どうした。ぐっといけ」
「あんまり無理に勧めちゃ駄目ですよ」
杯を持つ手を止めた彼に、先輩がさらに酒を勧めようとするのを青年が止めた。
「じゃあ君が代わりに飲め」
「はいはい。ああ、こぼさないで。あなたも相当出来上がってますね」
代わりに矛先を向けられた青年が彼の代わりに杯を受けようとしたが、先輩の手元が狂ったのか酒がこぼれてしまったらしい。
「違う、酔ってない。風のせいだ」
確かに先ほどから桜の花びらをはらはらと散らしていた風は、いつの間にか勢いが強くなっていた。
しかし風は時折花吹雪を起こす程度で、銚子を持つ手を揺らすほどではない。
先輩だって先の花見で自分と同じように飲んでいたのだから、もうそろそろ限界だろう。そう思いながら、彼は心地よくまわった酔いに再び重くなり始めた瞼を必死に持ち上げる。
酔っていないのは青年だけかと見ていると、青年は膝にこぼれた酒をハンカチで拭いている先輩の耳元で何事かささやく。それを受けて先輩も密やかな笑みをこぼす。
その様はまるで睦言を交わす恋人達のようだ。
だけどそんなはずはない。ふたりとも男じゃないか。
しかし、あの青年は本当に男なのか――いや、人間なのか。されすらももう定かではなかった。
皆、酔っているのだ。酒と、この桜に。
彼の意識がぐらりと揺れる。
その目の前で、重なり合った恋人達はゆっくりと大地に倒れていく。のけぞる白い首をそれよりさらに白い指先がなぞり、赤い唇が吸い付く。
――見てはいけない。でも目が離せない。
しかし酔いが彼の意識を奪っていく。心をそこに残して、意識だけが離れていく。
闇に落ちていくように、恋人達の姿を目に捕らえたまま彼の意識はその場から遠のいた。
不意に、目が覚めた。
目を見開いた彼は、布団をはねのけるような勢いで起き上がる。
見渡す部屋には小さな床の間に、壁に立てかけられた座卓があった。障子越しに差し込む眩しい光に照らされてはいるものの、昨夜見たのと同じ風景に戦慄する。
そのまま布団から出て這うように窓に近付き障子を開けると、まず最初に目に入ったのは物干し竿だった。
「あ、あれ?」
窓の外は庭になっていて、手前には洗濯物を干す物干し台がありその奥の壁際は花壇になっていた。
小さいながらもよく手入れされたその花壇には、パンジーやビオラ、コレオプシスなど春の花が咲いている。
窓を開けて身を乗り出して見渡しても、他には小さなコニファーの茂みと、昨夜の風にすっかり花を落としたらしい、まだ苗木と言ってもいいような小さな桜の樹が一本あるばかりだった。
「夢……だよなぁ」
昨夜見た夢のような光景は、やはり夢だったのだ。
ホッとしたような気が抜けたような、そんな気持ちのままに畳の上に座り込んだ彼の後ろで、ガラリと襖が開いた。
「やっと起きたか」
「あ、ああ、先輩。ここ、やっぱり先輩の家……ですよね」
笑顔で顔をのぞかせたのは、いつも職場で世話になっている先輩だった。
「ですよねって、お前、自分の足で付いてきたんだろうが」
「はぁ……いや、その辺の記憶がどうも、ちょっと……」
「どうした? 二日酔いか?」
どこまでが夢で、どこからが現実かが分からない。曖昧で境のないぼんやりとした春の空のように気分が冴えない。
歯切れの悪い彼を心配そうに覗き込んでくるのは、いつもと変わらぬ先輩だ。やはりあれは夢なんだ。そう思っても訊かずには居られなかった。
「あの……あの、桜……先輩の家にも桜が植わってるんですね。桜はあの小さいの一本だけですか?」
「そうだけど。あれは開拓で伐られることになった桜の樹の枝を貰ってきて挿し木したんだ。元は立派な大木だったんだけど今はまだ可愛いもんだろ」
「あの樹……一本だけ。ですよね」
「そうだって。ほら、いつまでも寝ぼけてないで、お袋が朝飯作ってくれてるから来いよ」
「はい―― あ」
促されて立ち上がった彼は、先輩の2番目のボタンまで外されたシャツの合わせの隙間から、首筋に赤い跡が付いているのが見えた。
桜の花びらのように小さく、しかし確かにそこにある現(うつつ)の証。
立ちすくむ彼の視線に気付いたのか、先輩は自分の襟元をなおした。
「夢、だよ」
「え?」
「夜嵐の 覚めて跡なし 花の夢―― さ」
夢の残り香を纏い微笑む。
彼は目眩を覚えたようにその微笑みから、昨夜の夢から目を逸らす。
もう一度庭を見ても、小さな桜の樹の枝が風に揺れているばかり。
昨夜確かに見たはずの光景はそこにない。
しかし、心はそこに置き去りになったままだと分かっていた。彼もまた囚われてしまったのだ。
――花の夢の中に