昼休みのオフィス街の広場は閑散としていた。
広場と言ってもビルの谷間にポツンとある、石畳の敷かれたほんの小さな空間。所々の植え込みに木が植えられ、中央にささやかな噴水といくつかのベンチがある程度の場所。
季候の良い時期ならここのベンチで昼食を摂る者もいるが、北風の吹きすさぶこんな季節にそんなことをする物好きは居ない。
今はただ惚けたように空を見上げるバカが一匹居るばかり。
「うー、寒い……」
バカは風邪を引かないと言うが、こう寒くては怪しいものだ。
空を見上げるのを止めた俺は、寒さに固まった体をほぐすように首を巡らせた。
ついでに視線も巡らせてみたが、みんな外食に出るのもおっくうなのか広場どころか道を行く人すらまばらだった。
かくいう俺も社内の食堂で昼食を済ませた。
そんな俺がわざわざ外へ出てきた理由を、そっと手のひらに受け止める。
さっきから青空なのに何処からかはらはらと舞い降りる雪は、俺の手のひらの上であっという間に小さな水滴へと変わった。
「手をどうかしたのか?」
じっと手を見ていた俺に向かってかけられた、聞き覚えのある声に驚いて振り向く。
俺の後ろに立っていたのは、同じ部署の先輩の斉藤さん。
「いえ、ちょっと雪を見てまして……」
「こんな所で……飯の帰りか? 1人でどんな美味い物を食いに行ってたんだ?」
確かにこの季節に用もなく外に出る奴はいないから、そう思われて当然だろう。
「違いますよ。ちょっとした運動がてらに雪を見に出てみただけです」
俺は照れ隠しに軽い口調で言い訳する。
食事の後、食堂の窓の外にちらちらと舞っているに白い物に気付いた。
明るい光が差すこんな晴れた日に雪なんて。不思議に思って窓に近づき空を見上げてみたが、青空に白い綿雲は浮かんでいるもののどこにも雪を降らせるような黒雲は見えない。
この雪がどこから来たのかそれが気になって、昼休みの暇つぶしもかねて外に出てきてしまったんだ。
出てきた物の、結局何処から振ってきているのかは分からなかったんだが。
「こんなに晴れてるのに雪が降ってるなんて珍しいですよね。ところで斉藤さんこそ何処に食事に行ってたんです?」
「俺は今日は弁当をとった」
「それじゃあ何で外へ?」
俺みたいに雪を見に来たわけでも外食の帰りでもないなら、斉藤さんこそどうしてここに居るんだろう。
「浅野が何か見てるみたいだから見に来たんだ。お前は面白い物を見つけるのが得意みたいだから、今度は何を見つけたのかと思って」
俺が会社の窓から雪を見つけたように、斉藤さんは窓から俺を見つけたのか。
だけど、俺がよく面白い物を見つける?
――そう言えば前にもこんな、固まっているときに後ろから斉藤さんに声を掛けられたことがあった。
「どうした。何か問題でも?」
仕事中、じっと自分の机の上の一点を見つめて固まっていた俺に、斉藤さんが声を掛けてきた。
「いえ、あの、こいつが……」
何か書類にミスでもあったのかと声を掛けてきてくれたらしいが、問題は書類ではなくその上。
書類の上を這うテントウムシだった。
最近あまり見かけなくなったとは言え、別にテントウムシなんてそんなに珍しい虫じゃない。
だけどこんなビルの10階にあるオフィス内で見つけると、意外性に目が点になってしまってつい動きが止まってしまったんだ。
「へえ、テントウムシか。人か荷物に付いてきたのかな?」
そう言いながら斉藤さんは俺の横に立って、テントウムシの方に手を伸ばしてきた。
斉藤さんが幾度か進路を塞ぐように行き先に指先を持って行くと、テントウムシは彼の指によじ登った。
「よーし、そのままそのまま。飛ぶなよー」
語りかけるように呟きながら、斉藤さんは給湯室の方に向かってそろそろと静かに歩き出す。
もしかして流しの排水溝から流してしまうつもりかと心配になって、俺も立ち上がって付いて行った。
斉藤さんは給湯室に入ると、そこの小窓を開けた。
このオフィスで唯一開く小さな窓。そこから外に逃がしてやるつもりなんだ。
ホッと安心して見守る俺の前で、斉藤さんはそこから腕を外に出すと手首を振ってテントウムシを飛ばそうとする。
「ほら、飛んでけ」
しっかりと指にしがみついたテントウムシはなかなか飛ぼうとしないらしいが、何度か振るうちに諦めたのか小さな羽を広げてふいっと飛び立っていった。
それを満足そうに見送る斉藤さんに心が温かくなった気がした。
「優しいんですねえ、斉藤さんは」
「いや、別にこれくらい……それにつぶしたりしたら書類が汚れるしな」
照れ隠しにか頭をかきながらはにかむ斉藤さんに、何故か胸の鼓動が乱れたような息苦しさを感じた。鼓動の乱れと共に心も乱れる。
そしてそれは、それからも何度も続いた。
彼が女子社員と話しているのを見ると、話に割って入る。
合コンや飲みに行った先で、彼が誉めた女性の粗を探してしまう。
こんなことをしたってどうなるわけでもない。分かっているのに、思うより先に体が動く。
斉藤さんの笑顔が、自分にだけ向けられればいいのにと思ってしまう。
俺が女だったら――せめて、男でももっと綺麗とか可愛いとかいう言葉が似合う容姿だったら……なんて、まともな男の考える事じゃない。
だけど想いが止められない。
今も、俺と同じように水色の空から舞い落ちる雪を目を細めて見上げる斉藤さんの、その横顔に魅入ってしまう。
「――ん?」
「あの、晴れてるのに雨が降るのが『狐の嫁入り』なら、雪じゃあ『狸の嫁入り』ですかね?」
俺の視線に気付きその意味を問いかけるように首をかしげる彼に、俺はとっさの思いつきを問いかけてごまかす。
「はは。そう言うのとはちょっと違うが、晴れた日の雪は『風花(かざはな)』と言うらしいな」
確かに言われてみれば、青空の中で風に舞う雪は白い花弁のようだ。
「風花――綺麗な響きですね。こんなこと知ってるなんて、意外とロマンチストなんですね」
「意外とってなんだよ」
俺の言葉に斉藤さんはわざとらしくむくれる。
「斉藤さんってどっちかというと体育会系って感じじゃないですか。なのにそんなことを知ってるなんて、意外ですよ」
「んー、俺がこういう事を言うのは似合わないかぁ」
今度は大げさに落ち込む振りをする。斉藤さんは隙あらば笑いを取ろうとする、明るい性格なんだ。
「いえいえ、そう言うのっていいじゃないですか。俺は……好きですよ」
物知りで明るくて優しい。こんな人なら誰だって好きになるさ。
だから――この気持ちはおかしなものじゃない。だから簡単に口に出せる。
「そうか」
照れながらも嬉しそうに笑う。その笑顔が胸に痛いが、俺も何事もない振りで笑い返す。
「ところで浅野は今度の週末は予定があるか? 暇なら飲みにでも行かないか?」
「おお! 給料前に奢りとは、太っ腹ですね」
「待て、誰が奢ると言った。ただ俺の意外性を存分に語ってやろうとだな――」
「意外性ってば大好きですよ! もー、思う存分語っちゃってください! 奢りで」
大げさなリアクションと口ぶりで抱きつく俺に、斉藤さんも明るく笑う。
「そうかそうか。分かったよ、聞いてくれるなら寿司でも天ぷらでも連れて行ってやるよ」
「ありがとございまーす! いつもの駅前でいいですから」
「ああ、もう昼休みが終わるな。そろそろ戻ろう。何処の店にするかはまた後で決めよう」
「そうですね」
時間に気付いて社に向かって歩き出す斉藤さんの後について歩き出したが、俺は立ち止まってもう一度空に向かって手を伸ばす。
はらりとこぼれてこの手の中に掴んだはずの花弁は、指を開くと幻のように消えている。
掴めない花弁。言葉にしても伝わらない想い。
――風花のようなこの想いを、静かに胸の奥にしまった。