オレは今日、男に振られた。それでもって今は雨に降られている。
「なーんてな。あー、もうサイアク……」
オレ史上これ以上はない最悪の事態に悪態をつくと、オレは空を仰いで今日何度目かの溜息をついた。
どんよりとどこまでも鉛色に曇った空からは、相変わらず絶え間なく雨粒が落ちてくる。雨は当分止みそうにない。おまけにそろそろ日も落ちる時刻。空はますます暗くなっていく。
空を見上げた姿勢のままゆっくりと後ろのシャッターにもたれかかると、カシャンと金属の鳴る不愉快な音がする。
店じまいしたのか潰れているのかも分からないような古びた商店のひさしの下で、いつ止むとも知れない雨を眺めながらの雨宿りは、とんでもなくわびしい。おまけに雨が止んだところで行く当てもない今のオレの境遇は、さらにわびしい気分に拍車をかけてくれる。
駅近くだけど寂れた商店街なこの辺りは、通る人もまばらだ。
そんな人達を見るとも無しにぼんやりと眺めているオレの前を、みんな傘の中に身をすぼめるようにして脇目もふらず足早に通り過ぎていく。
でも雨に降られようが槍に降られようが、帰れる場所があるってのはいいね。
――オレも、結局はあの部屋に帰らなきゃいけないんだよな。
こんな事態に陥った原因を辿って思い出したくもない出来事を思い出し、オレはまた溜息をついた。
オレにとって今日という日は別に特別でも何でもなく、いたって平凡な日々の延長のはずだった。ただいつもより、ちょっとバイトの終わる時間が早かっただけで。
今にも降り出しそうな空模様にせき立てられるように、マンションの一緒に住んでる恋人、支倉浩二(はせくら こうじ)の部屋に帰った。
玄関で見慣れない靴があったのを見ても誰かあいつの友達が遊びに来てるだけだろうと、軽いノリでリビングに入ったけど、誰も居ない。
ここで嫌な予感がしたんだけど、確認しないわけにいかないんで寝室を覗いたら……
カーテンが引かれた薄暗い部屋の中。床の上に脱ぎ散らかされた衣服と、シーツがしわくちゃになったベッドの上にはその服の中身が2つ。
まさに言い訳のしようもない完璧な浮気現場ってやつだった。
あいつの方は慌ててズボンをはこうとしてたけど、相手はベッドの上で素っ裸で固まってた。ダメ元でもクローゼットの中に隠れるくらいの芸当は出来ないのか。このグズ。
ちらっと見ただけだけど、さほど可愛くもない上に機転も利かない。オレの方が絶対断然いい男だ。
自分で言うのも何だけど、オレはかなりイケてる。
身長は170pちょいで、体重は夏バテの影響で今はちょっと落ちてるけど、抱き心地が悪くなるほどじゃない。顔もかわいい系だし肌もキメが揃っててさわり心地抜群。感度も良好。性格だって甘え上手だけど甘えすぎず、つくすと決めた相手にはとことんつくす。
そんなわけでオレは男女を問わずモテ、オレを自分の物にしたがる奴は今までに何人もいた。
そのオレを恋人として手に入れておきながら、他の男を連れ込むなんて!
「バカヤロー! 他の男に手ぇ出すなとは言わないけど、このベッドでオレ以外の奴とヤんなって言っただろ!」
何か言おうとする浩二を怒鳴りつけて、怒りにまかせて鞄を――財布も携帯電話も何もかも入ったそれを投げつけて部屋を飛び出した。
雨が降りそうなのは分かっていたけど、傘を持って出る余裕なんてなかった。とにかくあの場から離れたかった。見ていたくなかった。
あのベッドはお気に入りだったんだ。ふたりで寝ても余裕なゆったりした大きさも、ほどよく効いたスプリングもマットの堅さも。
あいつと初めて寝たのも、一緒に暮らそうって言われたのも、みんなあのベッドの上でだった。オレにとってあそこは大事な場所だったんだ。
あいつが節操無しなのは分かってたから他の男にも手ぇ出すくらいは目をつぶるけど、あのベッドにだけは連れ込むなって言ったのに。それなのに、一緒に暮らしだしてたったの2ヶ月足らずで……
思い出したらまた腹立ってきた。
「あのー」
「へ?」
突然、ムカムカといら立っていたオレが拍子抜けするほど遠慮がちに声をかけられて、オレは間抜けな返事をして声のした方を見ると、一人の男が立っていた。
「あの、雨、まだ止みそうもないですから、これ使ってください」
目の前の男は、そう言ってオレに黒い傘を差しだした。
「え、いや、あの、でも」
「君、僕が帰るのにここを通ったときも居て、それから30分も経ってるのにまだ居るのが見えたから気になって。僕の家はそこのアパートの2階で、まだ君が居るのが窓から見えたから」
そう言いながら彼は、突然のことにうろたえているオレに、道を挟んだ斜め向こう側に建っている年季の入った感じの2階建てのアパートを指差した。
なるほど自分の家のすぐ向かいで、陰気な顔した男がじっと雨宿りをしてるのは感じのいいもんじゃないよな。
だからってカーテンを閉めちまえば見えなくなるのを、わざわざ傘を貸してやろうと出てくるなんてよっぽどのお人好しだ。
オレは見るからに人の良さそうなこの男を、まじまじと見つめた。
短く切られた硬そうな髪と濃い眉がかもし出す硬い雰囲気を、二重のクリッとした目とちょっと厚めで口角の上がったキュートな唇が和らげている。
歳はオレより4、5歳上の25歳くらいかな? 身長は180pくらいで、スポーツでもやっていそうな引き締まった身体と日に焼けた健康的な肌に、洗いざらしのTシャツにパーカーを羽織っただけのラフな格好。
どこにでも居そうなスポーツ好きの兄ちゃんって感じの男だけど、しばらく前にスーツ姿でオレの前を通り過ぎたのを思い出した。
顔までは覚えてなかったけど、彼が差してる猫模様付きの傘には見覚えがあったから。
黒地に白いシャム猫のようなスリムな猫のシルエットがプリントされた、どう見ても女向けの傘を差したデカい男が通ったら、そりゃ印象に残るよな。
しかし、あれからまだ30分しか経ってないのか。携帯電話を時計代わりにしだしてから時計ははめなくなったんで、時間すら分からなかったんだ。
携帯、というか財布も何もかもを入れた鞄を放り出して来ちまったんだから、オレ本当に頭に来てたんだな。
「遠慮しないでどうぞ。安物の使い古しだから気にしないで」
思わず考え込んでしまってフリーズ状態だったオレに、遠慮をしてると思ったのか彼は笑顔でオレの手に傘を握らせようとする。
そのわずかに触れた温かい指先に、何だか胸がズキンと痛んだ。
身体も心も思った以上に冷えてたみたいだ。この程度の暖かさが無性に嬉しい。目の間がキンと痛くなって――駄目だ、鼻水が出そうだ。
思わず手を引っ込めて俯いたオレに、何か訳ありと察したのか彼も決まり悪そうに手を引っ込めた。
「その……ごめん。余計なことして」
「いえ、そんなことないです。ただ、傘を貸してもらっても行くとこないんで」
なんでそんなことを言ってしまったのか。馬鹿正直に自分の情けない現状を、会ったばかりの通りすがりの猫傘差した兄ちゃんに。
でも本当に行くところがないんだから仕方がない。あれだけ怒りまくって飛び出したのに、ほんの2、3時間で帰れるかよ。
出来れば今夜一晩くらいは帰りたくない。とはいえこの辺りには泊めてくれるような友達は居ないし、携帯がないから泊めてくれそうな奴にも連絡が取れない。財布もないから漫画喫茶とか24時間営業の店で夜明かしすることも出来ない。
結局しばらくここで時間を潰して、ノコノコ帰るしかないんだ。
「そのー、同居人とケンカしちゃって帰りづらいっていうか……頭冷やすにはちょうどいいんで、もうちょっとここにいます」
なるべく明るく言ってみたけど、相手の申し訳なさそうな顔はますます曇った。よっぽど悲壮な顔してるんだろうな、オレ。あぁ情けない。
「だったら、しばらく家に来る?」
その情けない面を見られてるのが嫌で、早いとこ帰ってくれないかと思っているオレに向かって、彼は意外なことを言ってきた。
「散らかってるけど、雨はしのげるし。僕はひとり暮らしだから気兼ねしなくていいよ」
「え? いえ、あの……」
「そのままじゃ君、頭を冷やすどころか風邪を引くよ」
確かにこの軒先に雨宿りに入る前に服も濡れちゃってたし、靴もジーンズも道路にあたって跳ね上がる水しぶきをたっぷり吸って、オレの身体を冷やしていた。
今まで怒りに気を取られて気付かなかったけど、9月初めのこの雨は、風邪を引くのに十分な冷たさだった。急に寒さが身にしみてくる。
男に男を寝取られて家を飛び出しずぶ濡れの中、猫傘差した兄ちゃんが優しく笑いかけてくる。
まったく今日は何て日だ。
オレはもう何もかも考えるのを放棄して、猫傘兄ちゃんについて行くことにした。