あなたの胸で眠らせて −2−

  この猫傘兄ちゃんは『安積紀朗』という名らしい。部屋に入る前に表札を見て確認した。
 何となく名前を知ったらちょっと落ち着く。まあ男同士だし普通は何があるってわけでもないんだろうけど、やっぱりちょっとな。
 とはいえ、先に立って階段を上る彼のお尻を見ながら『形のいいお尻してるなー』なんて思ったオレの方がよっぽど危険人物だよな。
 ふと、彼もそっちの気があってオレのことを誘ってるのかなんて考えもよぎったけど、通された部屋を見てそんな考えはすぐに消え失せた。

 適度に掃除が行き届いてる小綺麗に片付けられた部屋……なんてのは別に男でも珍しくはない。でも、可愛いピンクの布が敷かれた棚には、きれいに飾られた猫のオルゴールに猫のフィギュア等の猫グッズ。それに紛れてマニキュアや化粧品の瓶がいくつか。
 ――部屋のそこここに女の気配が感じられる。
 ひとり暮らしと言っていたから結婚や同棲をしているわけじゃないんだろうけど、彼女がいるのは確実だ。さっきまで差してたあの傘も、彼女さんの物だろう。
 この人は、ただの猫好きで彼女持ちのお人好し君だ。

「僕は猫が好きなんだ。でもここじゃ飼えないから残念だって愚痴ったら、友人が猫の置物をくれてね。それを飾ってたらそれを見た別の友人達も、旅行の土産とかことあるごとに猫関連の物をくれるようになって、いつの間にかこの有様なんだ」
 ほっとしたような残念なような、複雑な気分で突っ立ったまま猫グッズを眺めていたオレに、彼――安積さんははにかみながら猫まみれの由来を教えてくれた。
 オレがびっしり列んだ猫グッズを見て呆れてると思ったらしい。確かにぬいぐるみだとか男が買うには可愛らしすぎる物も有るから、自分で買ったんじゃないと言い訳をしたかったんだろう。
 言いながら、安積さんは洗面所からタオルを取ってきて渡してくれた。
「とりあえず、その辺に座ってて。コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
「あ、どっちでも。安積さんと同じでいいです」
 え? と、彼は何故自分の名前を知っているのかと不思議そうな顔をする。大きな目が驚きにさらに大きく見開かれる。
「表札を見たんですよ。安積さん……名前の方は何て読むんですか?」
「ああ、そっか。――のりあき。僕は安積紀朗(あさか のりあき)」
 納得がいったのか、にこにこと笑いながら名乗ると、君は? と言うように首をかしげる。
 この人、身体は大きいけど仕草や表情がとても柔らかいせいで可愛いく感じるというか、何かこう、いい人なのがにじみ出てるなぁ。
「オレ、宮本俊也(みやもと しゅんや)です。よろしく」
 軽く頭を下げて挨拶したオレに、安積さんも律儀に頭を下げる。
「宮本君か。こちらこそよろしく。コーヒーを入れてくるから、座ってて」


 手伝おうにも彼ひとりでも狭そうなキッチンスペースに、オレまで行ったら邪魔になるだけだろう。オレは言われたとおりリビングテーブルの脇に置かれた、これまた猫模様のクッションに座ろうとしてズボンが濡れてるのに改めて気付いた。
 このまま座ったんじゃクッションを駄目にしてしまうんで、床に借りたタオルを敷いてその上に座った。
 このタオルは後で洗って返せばいいよな。

「お待たせ。あ、そうだ。ズボンが濡れてるんだったよね。ちょっと待って」
 タオルを敷いて座っているオレを見て、安積さんは慌ただしく持ってきたコーヒーが乗ったトレイをテーブルに置くと、押し入れを漁ってジャージのズボンを出してきた。
「ちょっと大きいだろうけど、我慢してこれに履き替えて」
「いえ、そんな。いいですよ」
「遠慮することないよ。せっかく出したんだから履いてよ。新品じゃないけど、ちゃんと洗濯はしてあるから大丈夫だよ」
「それじゃあ……すみません。お借りします」
 そこまで言われて断るのも気が引けて、結局ズボンを借りることにした。
 あー、今日は普通のボクサータイプのパンツを履いててよかった。一応履き替える間、安積さんはそっぽを向いていてくれたけど、黒だの紫だののビキニパンツだったら絶対にズボンを脱げなかったよな。
 浩二はそういうのが好きだから、最近はそんなのばっか履いてたし……と、思い出さなくてもいいことを思い出してしまってまたブルーな気分になる。
 でもまあ乾いたズボンに履き替えて暖かいコーヒーをすすると、人心地が付いてそんな気分も和らいだ。

「さっき安積さんが差してた傘は、そのー、愛用品なんですか?」
 黙っているのも気詰まりなんで、ちょっと気になったことを訊いてみた。あの可愛らしい傘を会社に差して行ってるとしたら、かなりの変わり者だ。
「あー、あれは今朝慌ててたから、いつもの傘と間違えて持って出ちゃったんだ。あれももらい物で、使ったのは今日が初めてだよ。差したのは駅から家までの少しの間だったけど、やっぱりちょっと恥ずかしかったな」
 安積さんは照れたような笑みを浮かべた。
「それじゃあ、オレに貸してくれようとしたのがいつも使ってる傘なんですね。それを貸しちゃって、明日も雨だったらどうするつもりだったんですか? それに、そのまま持ち逃げされちゃったりするかもしれないのに」
 このアパートまでの道のり、ほんの数メートルだけど借りて差した黒い傘は、確かに新しくはなかったけど柄の部分が重厚な感じで高そうだった。持ち逃げされたらちょっと痛いだろう。
「うーん、でも家に傘は2本しかないし、あの猫の傘の方を男の人に貸すのはどうかと思って。持ち主の僕でも差しているのは恥ずかしかったからね」
「その恥ずかしい傘を明日も差していく羽目になるかもしれないことを、軽々しくしちゃ駄目ですよ。しかも見ず知らずの人間相手に」
「うん、そうなんだけどね」
 傘どころか財布も携帯も投げ捨てて飛び出した考え無しのオレが言えた義理じゃないけれど、思わず説教モードに入ってしまったオレに、安積さんははにかみながら首筋をなでる。
「でも、君は悪い人には見えなかったから。それに、何だか凄く困ってるみたいで放っておけなくて」
「実際困ってたんで助かりましたけど、自分が悪い奴じゃないとは言えないですよ。オレ同居人とケンカしたあげく鞄を投げつけて飛び出すような乱暴者ですから」
 安積さん、やっぱりいい人だ。けど、オレは困ってたというより怒り疲れてただけなんだよな。“触るな危険”って感じで気が立ってた。ただ、安積さんの声があんまり優しそうだったから気が抜けただけで。
「宮本君は学生?」
「はい。夏休みの間はバイトが本業みたいになっちゃってますけど、一応大学生です」
「僕の大学時代の友達にもルームシェアしてる奴らがいたけど、そいつらもよく大喧嘩してたから別におかしいとも悪いとも思わないよ。それに、そいつらもケンカしながらも卒業までシェアは続いたから、宮本君達もきっと仲直りできるよ」
「あー……オレの同居の相手は社会人なんです。つーか、オレが恋人のマンションに転がり込んだ、ルームシェアって言うより同棲ってやつです。でも今日はたまたまバイトが早く終わって早めに帰ったら、そいつがベッドに男を連れ込んでたんですよね」
 安積さんのあまりのいい人っぷりに、ちょっとやけになって言ってしまった。
 まあ嘘は付いてない。オレの恋人の方も男だってのを黙ってるだけで。
「それは……何というか、確かに帰りにくいね」
 悪いことを聞いてしまったと表情に出た安積さんに、オレは気にしていないと笑顔で明るくアピールする。
「でも、帰んないと。財布とか携帯の入った鞄を投げつけて出てきちゃったんで」
「携帯を置いてきたんじゃ今頃彼女が心配してるんじゃない? 早く帰ってあげた方がいいよ」
「いえ。あんまり早く帰ると、まだ相手の男が居るかもしれないんで」
「君に見られたことは2人とも気付いたんだろ? だったらそんなことは……」
「オレの恋人はちょっと理性とか倫理観とかユルい奴なんで、気にしてないと思います」
 そう言うところが気楽でよかったんだけど。――だけど、譲れない部分はある。

「ごめん。余計な口出しして。僕はお節介で一言多いっていつも言われてるのに。……雨、まだ降ってるかな?」
 安積さんは何だか複雑そうな顔をしたオレが気を悪くしたと思ったのか、話題を変えて窓の方を見た。
 窓の外は静かで、さっきまで聞こえていた屋根や庇を打ち付ける雨粒の音は聞こえない。だけど変わりに不吉な音が聞こえた気がした。
「今の……雷、ですかね?」
「うーん、どうもそれっぽいね」
 どこか上の階の住人が派手に走ったような、上から聞こえる小さいけれど響く音。だけどここは2階建てのアパートの2階の部屋ってことは、さっきの音は雷だよな。
 安積さんは窓際によってカーテンを開けると、すっかり暗くなった空を眺める。オレもつられて見ていると、商店街のビルの向こうの空がパッと一瞬明るくなった。
「あ、光った」
 ほとんど同時に同じ言葉を発してしまって、そんなお互いに気付いて向かい合って吹き出した頃、ようやくゴロゴロと音が遅れて響いてきた。
「まだ結構遠いみたいですね。今の内に帰った方がいいかな」
「いや、雷は遠くても油断しない方がいいって言うし、通り過ぎるまで待った方がいいよ」
「いえ、でもこれ以上ご迷惑は……」
「でもまだ帰りたくないんだろ? そーだ、宮本君腹減ってない? 時間つぶしに晩飯食べていきなよ。簡単な物しか作れないけど――明太子があるから明太スパゲッティーならすぐ出来るよ。君、辛い物は平気?」
 時刻はもう7時だった。普段ならそろそろ晩ごはんにする時間だから確かに腹は減ってる。でも初対面の相手にそこまで甘えるわけにはいかない。
「辛い物は好きですけど、いいですよそんな。これ以上迷惑を掛けるわけには」
「今君を帰して、途中で落雷で死なれたりしたら寝覚めが悪いし、僕もひとりで晩飯ってのも味気ないんで、軒を貸したお礼に付き合ってよ」
 そう言われると断りづらい。というか正直まだ帰りたくない気分だし、ここはありがたくご好意に甘えまくることにしよう。

「あ、彼女が君のことを心配してるかもしれないから、一応電話だけは入れておいたら? 晩飯を食べて雷が止むのを待ってから帰るって」
 確かに普段ならともかく手ぶらで飛び出したんだから、多少は心配してくれてるかもしれない。連絡くらいは入れてもいいだろう。最近は携帯に電話番号を入れるからほとんど覚えなくなったけど、浩二の番号は語呂が良かったんで覚えてる。
 けど安積さんの携帯電話を借りて掛けてみると、浩二の携帯は留守電になっていた。あいつは携帯だけで、家に電話は引いてないから他に連絡手段はない。
 無言で電話を切ったオレに、安積さんは心配そうな眼差しを向けてくる。
「出ないのかい? 怒ってるのかな、彼女」
「いえ。仕事が入って出掛けたんだと思います。携帯が留守電になってるときは仕事中なんです」
 今日はあいつの仕事は休みの日だったんだけど、休日に呼び出されることもあるんできっとそれだろう。と、いうことはあのバカ男も帰ったってことか。いや、もしかすると邪魔されないように留守電にしてまだベッドの中とか……。嫌な想像が頭をよぎる。
 腹が減ってるとイラついてろくなことを考えない。ひとまず飯を食って落ち着いてからかけ直そう。
「じゃあ留守電だけでも入れておけば?」
「食事の後、もう一度電話をさせて貰えますか? あいつ、留守電なんて気にしない性格なんで」
「いいよ。ここに置いておくから、好きに使って」
 テーブルに携帯を置いてキッチンスペースに行こうとする安積さんに、慌てて携帯を返す。
「携帯って個人情報の固まりなんですから、そんな無造作に知らない奴の前に置いておいちゃ駄目ですよ。後でまた貸して下さい」
「やっぱり君は悪い人じゃないね」
 オレから携帯を受け取ると、安積さんは嬉しそうににっこり笑った。笑ってる場合じゃないだろうこの人は。いい人過ぎて辛い物があるぞ。こんなのでこの厳しい世の中を渡っていけるんだろうか。人ごとながら心配になってきた。
 そんなオレの心配を余所に、いい人な安積さんは「手伝う」というオレの申し出を予想通りに「調理場が狭いから」という理由で断ってひとりで料理を初め、オレはボケーっとテレビを見ながら待つことになった。
 その間、何度か窓の外を窺った。しばらくすると雷は通り過ぎたが、また雨が激しく降ってきた。居させてもらって正解だったみたいだ。


「お待たせ。ちょっと運ぶのを手伝ってくれる?」
 そんなこんなで30分ほどして、お呼びがかかったのでようやくオレはお手伝いのチャンスを得てキッチンの方に向かった。
「スゴーい! 美味そう」
 安積さんから手渡されたトレーに乗った料理を見たとたん、お世辞抜きに思わず感嘆の声が漏れた。
 用意されたのは湯気の上がるピンク色も鮮やかな明太スパゲッティーとコンソメスープ。それともう一品。これは何だろう? 一口大のジャガイモとウィンナーを何かの野菜と一緒に炒めたような……何て料理か知らないけど、そんな美味そうな物がテーブルの上に列んだ。
「あっ、そうだ、宮本君はセロリは大丈夫? セロリって苦手な人が多いのを忘れてた」
 安積さんもテーブルに着いてから、謎のジャガイモ料理を差して訊いてきた。
「これ、このジャガイモと一緒に炒めてあるのはセロリなんですか。セロリは好きですけど生でしか食べたことないですよ」
「そういう人が多いよね。でもセロリは葉っぱの部分は炒めたりスープに入れると癖が消えて食べやすいし、茎の部分は火を通しても歯ごたえの良さが残るから、僕は好きなんだ」
「もしかして安積さんってコックさんとか調理関係の方ですか?」
 この短い時間で三品作る手早さといい見た目といい、突然の来客で慌てて作ったにしては上出来だ。
 だけど安積さんは照れた笑いを浮かべながら否定した。
「違うよ。ただ家の親が共働きだった上に、田舎で近所にコンビニなんて無かったもんだから、腹が減ったら自分で家の中にある物を何とかして食べるしかなかったんで適当な料理もどきを作れるようになっただけだよ。だから味の保証は出来ないけど、腹か減ってれば何でも美味いだろうから、食べてよ」
「いや、ホント美味そうです。いただきます」
 オレはお行儀良く手を合わすと、早速気になってたジャガイモ料理に手を伸ばす。ジャガイモが皮付きのままっていうのが、男の料理って感じでいい。そのジャガイモをセロリの葉っぱと一緒にフォークで突き刺して頬張る。
「んー、んまい!」
 自分も食べながら、そっとオレの様子を窺っていた安積さんの顔に笑みが広がる。でも、オレの方が絶対いい笑顔をしてるはず。だってこれ、本気で美味い。
 ホクホクしたジャガイモがホロッと崩れて口の中に広がる。出来たてな上に胡椒がきいてスパイシーだから口の中が熱くて大変なことになってるんだけど、それがまたいい。
「これ、何て料理ですか?」
「さあ……」
「さあって……知らないんですか?」
 あっさりとした答えに絶句しつつも、手は次のジャガイモに伸びる。ちょっと癖になる美味さだ。
「切ったジャガイモをレンジでチンして、セロリとウィンナーかベーコンと一緒に炒めて胡椒とマヨネーズで味付けしてるだけだから。何となく美味そうな気がしてやってみたら美味かったんで、よく作るんだ。だから名前なんて無いんだけど、便宜上『じゃがセロベーコン』とか『じゃがセロウィンナー』って呼んでるな」
「入ってるものそのまんまですか。シンプルなネーミングですね」
「うーん。『ジャーマン家庭料理風ジャガイモ炒め』とかの方がよかったかな?」
 ちょっとおどけた風に考え込む安積さんに、オレも乗る。
「お、いいですね。素朴な中にもレストランメニューにありそうな、結局は何だかよく分からないけど小洒落た感じのネーミングって感じで。オレのバイト先のファミレスのメニューに追加を薦めておきます」
「へー、宮本君はレストランでバイトしてるんだ」
「はい。国道沿いの『フェリシア』ってファミレスなんですけど、知ってますか? あそこでウェイターをやってます」
「ああ、あそこ。入ったことはないけど知ってるよ」
 安積さんはちょっと考えてすぐに思い当たったらしく、何度も頷いた。
「今度食べに来てくださいよ。ステーキはイマイチだけど、ハンバーグは美味いんですよ。って言ってもチェーン店だから、手作りじゃなくて冷凍物を店で温めてるだけですけど」
「ハンバーグか。そう言えば最近食べてないな。近い内に行かせてもらうよ」
「絶対ですよ」
「分かった。絶対行くよ」
 身を乗り出すオレに、安積さんが笑いながら頷く。
 社交辞令かもしれないけど、本当に来て欲しい。何か今日のお礼がしたいけど、この人は絶対受け取りそうにないもんな。でも晩ごはんのお礼にランチをおごるくらいなら受けてくれるだろう。
 ――それに何よりこれでお別れというのは名残惜しいくらいに、オレはこのお人好しの安積さんのことが気に入っちゃったらしかった。 


 明太スパゲッティーもスープも文句なく美味くって大満足で食事を終えたオレは、皿洗いくらいはさせてくれと言ったんだけど、安積さんはいいから彼女に連絡を取れと携帯を貸してくれた。いえ、彼氏なんですけどね。
 ともかくもう一度電話をかけてみる。
 けど、出ない。浩二の携帯は留守電のまま。オイオイちょっと待てよ。壁に掛けられた時計を見ると、もう8時を過ぎている。
 今までも休みの日や帰宅してからも会社や顧客に呼び出されて出掛けることはあったから、仕事に出てても不思議はないけど、困ったな。鍵も鞄の中だったから、開けてもらわないと家の中に入れないのに。

「まだ出ないのかい?」
 後片付けを終えて戻ってきた安積さんが、心配そうに声を掛けてくる。
「もしかしたら、君を捜しに出てるのかもしれないね」
「それはないです。第一それなら携帯を留守電にはしないですよ」
「ああ、そっか。他に連絡手段は無い? 彼女の知り合いに連絡を取るとか」
「仕事用の携帯も持ってたからそっちになら繋がるだろうけど、そっちの番号は知らないし……共通の友達の番号で覚えてる物もないです。携帯のメモリー機能にどっぷり頼ってたんで」
「そうだよね。僕も最近は携帯任せで電話番号を覚えなくなったな。それにしても仕事用の携帯も持っててこんな時間にまで呼び出されるなんて、君の彼女は凄いキャリアウーマンなんだね」
 いえ、ウーマンじゃないんですけど――とは言えないんで、曖昧に笑って誤魔化しておく。
「車のディーラーをやってて店で売り上げナンバーワンらしいんですけど、その分顧客が事故った時なんかにも呼び出されたりして忙しいみたいです」
「へぇ、アフターサービスのいいメーカーなんだ。でも、君にとっては困ったことだね」
「ええ。でもその内帰ってくるだろうから、取りあえず帰ります」
「帰るのはいいけど、鍵は持ってるの? 彼女が居ないんじゃ部屋に入れないんじゃない?」
「鍵も置いて来ちゃいました。でも仕事が済んだら帰ってくるだろうから、玄関先で待ってます」
「同じ待つならここで電話が繋がるまで待っていればいいじゃないか。まだ雨も降ってるみたいだし」
 そうだ。まだしつこく雨が降ってるから、帰るなら安積さんから傘を借りなきゃならない。どこまでも迷惑を掛けてしまう。
 なのに安積さんはまったく気にしていないというか、心配してくれている。
「ああ……なんかもう、帰りたくなくなっちゃうなぁ……」
「んー、じゃあ今夜は泊まっていく?」
 オレの独り言風の、でもしっかり聞こえるように言った言葉に安積さんはあっさり引っかかってくれた。
「いえ! そんな。そんなつもりじゃ……」
 ――だったんですけど。
「たまに友達を泊めるから薄いけど予備の布団もあるし、クッションを並べて敷けば一晩くらいは大丈夫じゃない? 彼女には留守電にメッセージを入れておけばいい」
「でも……」
「家に帰ったら僕の携帯に折り返し連絡をくれるように言っておいて、連絡があれば帰るってことにすれば?」
 あくまでも遠慮している風を装うオレを、安積さんは色々と気遣ってくれる。何だかちょっと良心が痛むけど、あいつの仕事が長引けば深夜どころか最悪マンションの廊下で夜明かしすることになる。
 ここは安積さんの人の良さにつけ込ませてもらおう。
「それじゃあ……あの、泊めてもらえますか?」
「うん。いいよ。――ああ、歯ブラシの予備はまだあったかな? パジャマはジャージでいいよね?」
 安積さんはオレの言葉に頷くなり、早速押し入れを漁ってオレを泊める準備を始めてしまった。


 …………やっぱりあなたはいい人過ぎます、安積さん……

(up: Jan.2007)

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