あなたの胸で眠らせて −3−

 シュンシュンとお湯の沸く音と微かに陶器の触れる音がする。起こさないようにと、そっと足音を忍ばせて歩く気配が行ったり来たりする。
 誰かがオレのために朝ご飯を作ってくれる――そんなことを夢見ていたのは、もうずっと子供の頃の話。



 夢から覚めたらまた夢の中だった。何だかそんな感じ。窓から差し込む雨上がりのピカピカの朝日と、その中でテキパキと朝食の用意をする安積さんの姿は見えているんだけど、起きられない。自分が夢を見ているんだか起きているんだかが分からないんだ。
「おはよう。目が覚めた?」
 寝転がったままぼんやりとだけど目を開けているのに気付いた安積さんに声を掛けられて、オレはようやく本当に目が覚めた。
「うわっ、あ、安積さん。おはようございます」
 バネ仕掛けの人形のように勢いよく起き上がると、目の前がくらっとした。あー立ち眩み。けど、くらっとなってる場合じゃない。突然転がり込んだ居候のくせに家主を働かせてぐうたら寝ているなんて許されないぞ。ようやく頭が働き出す。

 結局オレは昨日の夜、安積さんにコンビニで替えのパンツと歯ブラシまで買ってもらって泊めてもらったんだ。
 浩二からの電話は無かったから。
 あのやろう帰ったらどうしてやろうか! そんな気持ちと、事故にでもあったんじゃないかなんて一抹の不安が胸の中でもぞもぞしている。
 取りあえず、それは帰れば分かることだ。今は安積さんの手伝いをしなきゃ。
 安積さんはもう着替えもすませて、ワイシャツの袖をめくって朝食の準備をしている。
「何か手伝います」
「ん、いいよ。もう出来るから。顔を洗ってきて。ほら、早くしないと冷めちゃうよ」
 何にも手伝えずにタオルを手渡されて洗面所に追い立てられる。
 オレはせめてもと手早く顔を洗ってテーブルに着いた。


 カリカリに焦げたベーコンの芳ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 テーブルの上にはトーストとベーコンエッグ。セロリとキュウリのスティックと薄切りトマト。飲み物は熱い紅茶。
 まさに絵に描いたような朝ご飯。いつもこうなのか、オレが居るから作ってくれたのか。どっちにしろ凄い。
「宮本君はベーコンエッグに何をかけて食べる?」
 目の前にはソース、塩胡椒、ケチャップ、そしてマヨネーズが並んでいる。
 ケチャップは子供っぽいよな。オレはそんなにガキ臭く思われてるのか? と安積さんの方を見ると、彼はトーストの上にマヨネーズを少し塗ってその上にトマトとベーコンエッグを重ねた。そしてケチャップを取ると黄身を囲む感じで丸くかける。仕上げに胡椒を少々。
 手早くオープンサンドを作り上げた。
 それを見ていたオレに気付いてにこっと笑う。
「こうすると手っ取り早く食えるし、美味いんだ」
 そう言うと、大きく口を開けて豪快にかぶりついた。
 オレは朝は食べる気しなくて、ヨーグルトか野菜ジュースくらいしか口にしないんだけど、なんか目の前でこう美味そうに食べられると、こっちまで食欲が出てくる。

「いただきます」
 オレはトーストを手に取ると、安積さんに習ってオープンサンドにしてみた。そして同じく口を大きく開けてかぶりつく。
 プルプルの白身とベーコンの堅さ、それにパンのサクサク感が一度に混じり合う。もう一口囓ると今度はトマトも参戦してきて、食感も味も変わってくる。美味しくって楽しい。
 早く中心の黄身まで到達したくて、さらにかぶりつく。口の端にケチャップが付いたのをペロリとなめると、それを見て安積さんがちょっと笑った。
「食べにくい? 無理して僕と同じ食べ方をしなくていいんだよ」
「いえ。こうして食べるとすっごく美味いです」
 だけど、食べにくいのも確かだ。囓ると表面が破れて、半熟の黄身がトロリとたれてきた。
「卵は両面焼きにした方がよかったかな?」
「いえ。半熟が好きです。でも、これ、大変なことになってる」
「パンの耳の部分をちぎって、たれそうな黄身を少しすくってから食べるといいんだ」
「おお。さすが、ベテランですね」
 手のひらにまでこぼれてきた黄身に手こずるオレに、安積さんがアドバイスをくれる。言われたとおりにパンの耳に垂れてきた黄身を絡ませて頬張ると、濃厚な黄身とパンだけの味になってそれもまた美味しい。
 ホントに息つく間もなくって感じで食べきって、紅茶を飲んでようやくオレは一息ついた。
「ふぁー、すっごい美味かったー。朝からこんなにしっかり食べたのなんて何年ぶりだろう」
「朝こそちゃんと食べなきゃ駄目だよ。紅茶のお代わりは?」
「いえ。もうお腹いっぱいです。それにそろそろ用意をしないと、浩……いや、あいつが会社に行く前に捕まえないと」
 あやうく浩二の名前を言いそうになって慌てて言い直した。浩二なんて名前の“彼女”は普通いないもんな。

 最後にこれだけは譲れないと、朝食の後片付けだけさせてもらってから帰る準備をする。
 あいつが家を出るのは7時50分。まだ50分はあるけど、ここからマンションまでは15分ほどかかるだろうし早めに出るに越したことはない。
 と言っても持ち物なんて履き替えたパンツくらいだし、それを紙袋に入れさせてもらって着替えをすませたらそれで準備完了。
 借りたタオルとかパジャマ代わりにしたジャージも持って帰って洗濯したかったんだけど断られたから。

「あの、それじゃあ本当にお世話になりました。後でちゃんとお礼に来ますから」
 後は玄関まで見送りに来てくれた安積さんに、深々と頭を下げてお礼を言った。
「ああ、待って。これを持って行って」
 そう言って安積さんが渡してくれたのは茶色い封筒。受け取ったとたんにチャリンと音がして中身の想像は付いたけど、開けて確認する。
 中身は小銭が何枚かと五千円札が一枚。それとテレフォンカード。
「何ですかこれ」
「もし万が一だけど、彼女とすれ違いになったら電車賃とかいるかもしれないだろ。それに電話を掛けなきゃならなくなるかもしれないし」
「でも、だからってそんな。安積さんがそこまで……」
「誤解しないで、貸すだけだから。後で返しに来てよ。そうしたら僕もこれを返してあげるから」
 そう言って安積さんは手にしたメモを振った。
 それはオレが昨日泊めてもらうのにせめてもの身元証明代わりにと、名前と通ってる大学名とバイト先。それと浩二のマンションとオレの実家の住所を書いただけのメモ。
 いくらでも偽造できる嘘っぱちかもしれないメモ一枚で、見ず知らずのヤツを泊めてやった上にお金まで貸そうだなんて――
「安積さん。もっと自分を大切にしてください」
 ん? このセリフは何か違うか。でも、思わず言わずにはいられなかった。
「あはは。それは君の方だろ。もう何も持たずに飛び出しちゃ駄目だよ。ほら、早く行かないと時間がなくなるよ」
 オレの何だか妙な言葉に笑いながら、安積さんはオレの頭をくしゃくしゃと撫でた。この人の手は、本当にあったかい。
 そのままその手で背中を押され、靴を履いて玄関を出る。

「僕もすぐに出掛けちゃうけど、鍵はここに置いとくから。もしすれ違いか何かで彼女に会えなかったら家で待ってるといい」
 安積さんはオレを追うように玄関から身を乗り出してきて、玄関の扉の横の門灯というか灯りの笠の部分の上に部屋の鍵を置く振りをする。
「だーから、駄目だって言ってるでしょう。そういう自衛意識の低いことをしちゃあ!」
 恩知らずにも一宿二飯の恩人を叱りつけてしまう。だけど、こんなことをしていたら本当にいつか泥棒に入られちゃうだろう。
「いや、これは友達相手にいつもやってるから。それに家には金目のものなんて無いし」
「――猫グッズを根こそぎ持って行かれてもいいんですか?」
「あ、それは困るな」
 一瞬、本気で困ったような顔をした安積さんに思わず吹き出してしまう。いや、笑ってる場合じゃない。やめさせないと。
 だけど今は話している時間はない。早くマンションに戻って浩二に会わなきゃ。
「じゃあ、オレもう行きます。けど、すぐにお金を返しに来ますから、この話はそのときまた……」
「うん、分かった。またね。今度は仲直りして彼女も一緒に連れておいで」
 笑顔で手を振る安積さんにオレも精一杯の笑顔で手を振る。

 絶対にまたすぐにお礼に来ます! ――だけど、“彼女”を連れてくるのは絶対に無理です。

(up: 7.Feb.2007)

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