午前7時過ぎ。駅の前を通り過ぎ、駅へと向かう通勤通学の人達と逆の方向に向かって歩く。
顔を上げるともう目指すマンションが見える。駅から見て東側。見晴らしのいい坂の上に建っている。眺めがいいのが売りのマンションだけど、たどり着くには上り坂だからちょっと大変。ただでさえ重い足取りがなお重くなる。
そんな想いを振り切るように、歩道の真ん中に広がる雨上がりの空を映す大きな水たまりを、避けずに勢いを付けてジャンプして飛び越す。
「よし、越せた」
小さな成功が小さく嬉しい。自分で自分の気分を盛り上げるべく、なるべく明るく楽しい気分に持って行く。
けんか腰は駄目だから。「仲直りできるよ」と安積さんも言ってくれた。あの笑顔で言われると、本当に出来るような気がする。
浮気した浩二が悪いのは確かだけど、その浮気の原因がオレの方にもあると言えばあるし……その辺の所をちゃんと話し合えば関係修復出来るはず。
とにかくオレは浩二となるべく穏やかに話が出来るように、心を落ち着かせながら歩いた。
マンションのエントランスホールへの入り口は暗証番号で開けられるから、四階の部屋の前までは難なく進めた。オレとオレの恋人の支倉浩二(はせくら こうじ)の暮らす部屋。
問題はここから。いつも何の感慨もなく見ていたダークブルーの扉が、やたら重くて分厚そうに見える。
開けてもらわなきゃ入れない今の状況じゃ、重くも見えるよな。
オレは意を決して軽く深呼吸をすると、ドアのチャイムを押した。
扉の向こうで、微かにだけどチャイムの鳴っている音がする。だけど、反応がない。もう一度――さらにもう一度。
無視かよ、オイ。と、言うよりも留守? いくら分厚い扉越しでも、中で人が動いていれば気配くらいは感じられるはずだけどそれがない。しばらく扉に張り付いて不審人物丸出しで聞き耳を立ててみたけど、中はまったくの無音。ってことは浩二は部屋にいないってことだよな。
何処かにオレを探しに行ってくれてるとか……なんて思ったが、一瞬でそんな考えは捨て去った。有り得ないから。あいつはそんなことをしてくれるタイプじゃない。
まさかもう出社しちゃったとか? いや、もしかして昨日から出掛けて帰ってないのかも。今まで休日に仕事で呼び出されて出掛けたことはあっても、一晩戻らないなんてことはなかった。これは本当に事故にでもあったのかもしれない。
それとも部屋の中で倒れてるとか。
今までほとんど想像してなかった不吉な考えが次々と胸に広がる。オレはエレベーターを待つのももどかしく階段を一気に駆け下り、地下の駐車場へと降りた。
地下駐車場のいつもの場所に、浩二の車は無かった。
無駄にデカい外車だから駐車場の出入り口からでもすぐ見えるんだけど、わざわざ停車場所まで行って確認してしまう。けど無いものは無い。
取りあえず部屋でどうにかなってるってことはないんだ。けど、じゃあどこに?
「どこ行っちゃったんだよ、もう……」
走ってきたせいだけじゃなく声が震える。どうしよう?
とにかく、ここでこうして突っ立っていたって仕方がないのだけは確かだ。ひとまず落ち着こうとエントランスに戻って入り口正面に掛けられた時計を見ると、7時35分だった。
普段ならまだ浩二は居るはずの時間。なのに居ない。昨日はオレ達の部屋に居るはずのない男が居て、オレは猫傘差したサラリーマンに拾われちゃって――何なんだよ。昨日から予想外のことばかりで頭が付いていかない。
でも何とかしないと。オレは手にしていた紙袋に目をやった。
出来れば手を付けたくなかったけど、この際仕方がない。オレは安積さんから渡された封筒からテレフォンカードを取り出して、ロビーの隅にぽつんと置かれ今まで有ったことすら気付いていなかった公衆電話に向かった。
浩二の勤めてる会社の名前くらいは覚えてる。勤め先は外車の販売店だから、絶対に電話帳に番号を載せてるはず。だから、番号を調べて会社に電話してみることにしたんだ。
電話台の下に置いてある電話帳を開いて会社の電話番号を探すと、あっさり見つかった。だけど記載されているのはお客用の番号だから、始業時間にならないと繋がらないかもしれない。でも駄目元で取りあえずかけてみると、繋がった!
がっかり続きで萎えてたテンションが一気に上がった。
しかし、上がったテンションが落ちるのは早かった。というか、テンションも状況も急転直下でどん底まで落ちた感じ。
受話器を置くと、本当にがっくりと肩が落ちた。
海外出張って何だよそれ。聞いてないぞ。いや、正しくは聞いていたけど日にちが違う。
週明けからのはずが急に予定が早まって、浩二は昨日の夜の内に飛行機でドイツに向かったそうだ。
それだけ聞き出すのも大変だった。海外出張の場所と本来の日時を知ってたお陰で何とかオレが本当に浩二の知り合いだと信じて貰えたけど、ただのお客様対応係のお姉さんに浩二の海外での連絡先が分かるわけも、分かったとしてもそれをオレに教えてもいいかの判断が出来るわけもなく。これ以上の情報は聞き出せなかった。
結局現状は把握できたけど、それを打開する為の話は何一つ得られなかったんだ。
念のため、もう一度部屋の前まで行ってメモか何か残されていないか調べてみる。さらに管理人室に寄って何か伝言か荷物を預かってないか訊いてみたけど何も無し。
一応管理人さんに閉め出された事情を説明して鍵を開けて貰えないか訊いてみたけど、一緒に住んでるという証明になる物や人がいないと無理、と扱く真っ当な理由で断られた。まあ当然だ。
まさに八方塞がり。どうしようもない。
浩二のヤツもオレがこうなるのは分かっただろうに、荷物をドアの外に出しておくのは無理だとしても、ドアに何かメッセージでも張っておいてくれるか、監理人に話を通しておいてくれるくらいしてくれてもよかったんじゃないか?
いくら急に出張の予定が早まったにしても、自分の荷造りをする時間くらいは貰えただろうに、オレへのフォローは何もしてくれてないってあんまりじゃないか。浩二に投げつけて放り出してきた鞄の中に、オレの携帯も財布も全部入ってるのが分かってたくせに。
――これは、オレは浩二に捨てられたってことかな。もうどうでもいいって思われたのかな。
「あんときに、ヤらしてやんなかったせいかなぁ」
もう万策尽きたオレはエントランスホールの壁際の長椅子に座り込み、ぼんやりと事の発端になったと思しき出来事を思い返していた。
今から一週間ほど前、8月の終わり頃。バイト先のファミレスは夏休みの終わりを惜しむ中高生で朝から晩まで混み合っていた。そんな時に、バイトの高校生2人組が「目標金額は溜まったから」という自己中な理由で突然バイトを辞め、パートのおばさんも1人おばあさんが倒れたとかで急遽休むことになったんだ。
そんな突然にバイトを雇うことも出来ず、店は残った者達をフル稼働させて何とかするしかなくなって、バイトのオレも一週間休み無く朝からフルタイムで働いた。
元々暑さに弱くて毎年のように夏の終わりにはへたばっていたオレには、これは本当にきつかった。とてもじゃないけど浩二からの夜の誘いに答えられる状態じゃなかった。
だけど事情はちゃんと説明したし、何より一週間で体重が4キロ近く落ちてやつれ果ててたオレにヤらせろって言うこと自体がひどくないか? そりゃあそういうことをするために同棲を始めたわけだから浩二の気持ちも分かるけど、相手の体調も考えずに迫るってのはどうなんだ。
別に疲れてるから気遣えとか何かしてくれとか、我が儘を言ったわけじゃない。ただ今は疲れてるから無理だって言っただけだ。それなのにオレのお気に入りのあのベッドに男を引き込んだあげくに今のこの状況……
浩二にとってオレはいったい何だったんだろう。
「好きだって言ったじゃないか……愛してるって言ってくれたじゃないいか」
その言葉の後ろには「お前の身体が」って言葉がくっついてたのかな。
朝の光が一杯に差し込む明るいエントランスホールで、オレはどこまでも暗く沈み込んでいた。