人でなしでも愛してる? −2−

 ――だけどこのままいつまでも電車に乗り続けていてもらちがあかない。
 そんな俺の背中を押すように、アナウンスが最寄り駅の駅名を告げる。
 俺は観念して、根が生えたように重いケツをシートから引きはがすように立ち上がった。


 もう日も昇ってきたし電車も動いてるから、奴も帰ったかもしれないと淡い期待を胸に、のろのろといつもの倍近い時間を掛けてアパートへ戻ると、玄関に近づいたとたんに扉が内側から勢いよく開いた。
「慎次! よかった帰ってきた」
 心底心配した様子で俺を迎える江島に、俺はどんな顔をすればいいんだろう。
「もう電車動いてるぜ」
「え?」
「だから、さっさと電車乗って帰れよ」
 動揺した心とは裏腹に、言葉は淡々と出てきた。
「いや、でも、話があるんだ。とにかく中に――」
 そのまま目を合わせずに突っ立ってる俺を部屋に入れようと、江島が俺の腕を掴んだ。
「いったーっ」
 そのとたん、俺は自分でも驚くほど大きな声を出してしまって、江島も驚いて手を離した。
 あいつが握ったその場所は、ちょうど声を殺すのに噛んでいた所だったらしい。掴まれたとたんに脳天まで突き抜けるような痛みが走って、思わず声が出てしまった。
 気が付いてなかったけど、噛み付いていた痕は結構酷いらしい。
「腕、怪我したのか? 俺が……やったんだよな」
 そうじゃないけど間接的には江島のせいだし、何と言えばいいのか分からなくて顔を背ける。
 というか、こいつ自分が何をしたのか覚えてないのか? 人にあんなことをしておいて覚えてないなんて、酔っぱらってたにしたって酷すぎる。ムカムカと腹が立った。

 そうだ。俺は今まで腹は立ってなかった。どうしてなのか、どうしようか、そんなことばかり考えていて腹を立てるのを忘れていた。
 呆然として立ちすくんでいる俺を案じるように、江島が身を乗り出してくる。心配そうに再びこっちに手を伸ばしてきたが、どこに触れればいいのか分からなくて戸惑ってるみたいだ。
 そんな江島の手から逃れるように後ろに下がると、左手で包み込むようにして右手を隠す。
「痛むのか? ちゃんと手当しないと」
「余計なお世話だ。いいから出てけよ!」
 さらに言葉を続けようとしたけど、隣の部屋の玄関が開く音に口をつぐんだ。
 俺達の声に起こされたのか、隣の部屋の佐藤が寝ぼけ眼で扉の隙間から顔を出した。
「……慎次ぃ、朝っぱらからうるせーよ。オメー」
「ごめ。ちょっともめてまーす」
 その様子から夜のことはバレてないとほっとしたけど、今の状況を詮索されると厄介だ。
 なるべく何でもない風に明るく謝ると、目をしょぼつかせて胡散臭げに俺達を見ている佐藤の視線から逃れるように部屋に入ると、江島は俺に触れないように後ろに下がった。
 けど、これ以上奥には入りたくない。いつでも逃げ出せる位置で立ち止まる。
 自分の部屋から逃げ出したいって何なんだよこの状況。

 互いにきっかけが掴めなくて黙り込んでいたけど、江島が先に口を開いた。
「あの、ごめん。勝手にシャワー借りた。その……」
「精液まみれだったし?」
 我ながらストレートすぎるかと思ったけど、他に言いよう無いし。
 二の句が継げない言いように江島も再び黙り込み、気まずい沈黙が流れる。
 ああ、そうだ、シーツも汚れてごわごわになってるよな。洗わなきゃ。
 ――どうでもいいようなことなら考えられる。何をするべきか、この事態をどうすればいいのかは何も考えられないのに。
 とにかく俺は黙って立ってるのが耐えられなくて、江島を押しのけるようにベッドまで行くとシーツを引っぱがした。
「俺は洗濯するんだ。忙しいから帰れ」
「俺がやる。それよりお前、怪我してるんだろ。手当をしないと。病院に行った方がいいかな?」
 心配する江島を無視してシーツを丸めて抱える。
「俺がやるって! お前は大人しくしてろ」
 俺からシーツを奪おうと手を伸ばす江島に、身がすくんで動きが止まる。
 そんな俺に釣られたように江島も動きを止めた。
「なあ、頼むからそんな怯えた顔しないでくれよ。もう乱暴なことはしないから」
 強ばった俺の表情から、江島は俺が怖がってると思ってるみたいだけど、別に怖がってるわけじゃない。
 あの手が俺の身体のあちこちに触れていたと思うと、恥ずかしくっていたたまれないだけだ。
 江島は何で俺にあんなことをしたんだろう。

「何でだよ。何で……お前、あんな……あんなことしたんだよ」
「ずっと好きだったんだよ。昨日はおまえ、妙に俺にやさしくってさ……それで、部屋に入れてくれて……だから」
 俺の曖昧な質問の意味を察して江島は答えてくるけど、それ全然言い訳になってない。
「そりゃあ、ちゃんとお付き合いしてる恋人同士が相手を夜中に部屋に入れりゃあ、そういうのも有りかも知れないけど、男同士で友達なら部屋に泊めるのなんて普通の事だろ。何勘違いしてんだよ」
「いつもなら俺が構ったら鬱陶しそうにするのに、昨日はそうじゃなかったから……俺の気持ちが通じたと思って、嬉しくってさ。だから……」
「だから押し倒したってのかよ! 好きのスの字も言わずに気持ちが通じるもクソもないだろ! 順番飛ばしすぎ。自分勝手すぎ。お前俺の気持ちなんか全っ然っ考えてない!」
「好きだっていうのは言っただろ!」
 まくし立てる俺を遮るように、江島も声を荒げる。
「はあ? いつだよ」
「昨日、二件目の飲み屋を出てすぐ」
 んな訳あるかと思ったけど、真剣な江島の表情にアルコールのせいでちょっとあやふやな昨日の記憶を辿ってみる。
 そう言えば店の外でちょっとふらついたあいつに肩を貸したときに、耳元で「好きだ」と言われた。そうだ確かに言われた。
 けど、そんなのただ肩を貸した事への礼を込めた冗談としか思わなかったから「はいはい俺もだよ」とかテキトーに流した……あれが告白で、それを俺が受けちゃったと思いこんだのかよ。
 それでご機嫌になって酒が進んで歯止めがきかなくなりました、と?
 なんだそりゃ。ただでさえ寝不足の頭にぐらりと来て目眩がした。
「あんなの、あんな、酔っぱらいの戯言みたいなノリで告られて本気にする奴がいるか! この大勘違いヤロー」
 でも一応、言うべきことは言ってたんだ。ちょっと責める勢いが削がれる。
「好きだって言った後に優しくされて、部屋にまで入れてくれたら……その、誤解したってしかたなくないか? 本当にずっと好きだったんだ。だから、嬉しくって、有頂天になったっていうか……ベッドでお前が笑って目を閉じたとき、凄く嬉しくって、もう何にも考えられなくなって」
「でも、でも止めろって言ったのに止めなかっただろ。本当に好きな相手が嫌がってたら、嫌がること、好きならしない、だろ」
「それはホントに悪かったよ。酔ってたなんて言い訳にならないのは分かってる。けど、お前意地っ張りでいつも素直じゃないから……本気で嫌がってるんじゃないだろうって思って」
 俺が年下に見られて舐められないように頑張ってたのは、ただの"意地っ張りで素直じゃない"風に見えてたのか。さらにがっくりと力が抜ける。
「お前のことが本当に好きなんだ。ここで終わりになんてしたくない。許して貰えるなら何でもする」
 江島は落ち込んで気落ちした俺の顔をのぞき込むように、必死に訴えかけてくる。
 真剣なこの目が嘘とも思えない。――嘘だと思いたくない。
「じゃあ……それじゃあ今後一年間、俺に指一本触れなかったら信じてやってもいい。俺のことがホントに好きだって」
 ただ、やりたかっただけじゃないって信じたい。
「それで本当に信じてくれるなら。ただ、その、近寄られたくないからその場しのぎで言ってるだけっていうのはなしだぜ?」
「ああ。ちゃんと約束を守ったら信じてやる」
「だったら約束する。これから一年、お前に絶対に触らない」
 俺の言葉にようやく江島の顔に安堵したような笑顔が戻る。俺も江島の返事に安心する。
 安心したら眠気が一気に襲ってきて、目を開けてるのも辛くなってきた。

「慎次、大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。眠い」
 そんな俺の様子を心配して江島は俺の方に手を伸ばしかけて、すぐに手を引っ込めた。
 そうそう、触っちゃ駄目なんだからな。今の俺なら簡単に押し倒してやっちゃえるだろうに、江島はちゃんと約束を守る気なんだ。
 そう思ったら本当に立ってられなくなって座り込んでしまった。
「慎次? どうした? 怪我が痛むのか? なあ」
「眠いんだよバカ。……俺は昨日一睡もしてないんだ」
「あ、そうだったな。寝てくれ。代わりのシーツはどこだ?」
「んなもん無い。無くてもいいから寝る」
 そのままシーツを剥がしたベッドに這っていって倒れ込むように寝転がる。すぐにも目をつぶって眠り込んでしまいたいけど、そうもいかない。そばで突っ立ってどうしようか困惑した様子で俺を見ている江島を下から睨み付ける。
「バカかお前は。お前がいたら寝られないだろ。帰れ」
「何もしないよ! 本当だ。あ、でも傷の手当てはしないと」
「腕はどーってこと無い。ほっときゃ治る。寝ちゃったら何かされても分かんないから寝られないだろ。いーからお前帰れ」
「でも、シーツが。洗濯して干さなきゃいけないだろ? お前は寝てくれ。俺がちゃんとしておくから」
 江島はそう言って、俺がへたり込んだ際に床に放ったらかした丸めたシーツを指差す。
「うー、そうだシーツ……眠い、のに」
「だから、寝ろって。絶対に手を出したりしない。シーツを洗濯したら帰るから」
 食い下がる江島に、いい機会なんで寝たふりをして本当に何も手出ししないか確認しようと思ったんだけど、目を閉じたら数分と持たずに本当に眠ってしまったらしい。目が覚めたらもう日が傾きかける時刻だった。
 まだぼうっとした意識の中でも、一応服とか身体の感じとかで何もされていないか確認するがまったく異常なし。と、思う。
 部屋を見渡すと、窓の外の小さな物干しスペースにはシーツが掛かっていて、部屋の中に江島の姿はなかった。
 ちゃんと洗濯して、何にも手出ししないで帰ったんだなと、俺はほっと一安心した。
 ――はずなんだけど、なぜだか少し寂しかった



 あれから数日。俺達は表面上何事もなかったように"友達"をしていた。

「あー、あの先生ってば毎度毎度時間オーバーさせんのやめて欲しいよな」
「ホントだよな。こんな時間じゃ学食混んでるぜ。外にパンでも買いに行こう」
「もう少しすれば空くだろ。俺は飯が食いたい。ちょっと待ってから学食に行く」
 昼食前の授業の終了時間を遅らされたせいで、学生食堂の席取りに行けなかった同じゼミの友人達は、みんな裏門のすぐ目の前にあるパン屋に向かう。
 確かにそこのパンは安いしウマいしで俺も好きなんだけど、今日は何だか白いご飯が食べたい気分だったんで、俺はひとりで学食が空くのを待つことにした。
 と、思ったんだけど学食派がもうひとりいた。江島だ。

 江島も学食がいいから残ったっていうより、これは俺と2人になりたかったからだよな?
 あれから俺は、江島と2人きりになるのを避けていた。
 どんな態度を取ればいいのか分からなかったから。
「食堂の方に行って待ってようぜ」
「ああ。そうだな」
 俺の気持ちを知ってか知らずか、2人だけになってもこれまでと変わらない江島の様子に拍子抜けした気分になりながらも、俺は先に立って歩き出した江島の後を付いていく。
 だけど江島は食堂の前に来ても、そこを通り過ぎてどんどん歩いていく。立ち止まったのは食堂の裏。
 後ろは壁だし、この部分の食堂の窓は磨りガラスになってるから人気も人目もない。
 結構ヤバい場所だよな。でも、俺は付いて来ちゃったんだよな。

「なあ、怪我治った?」
「うん。ほら、痕も残ってねーよ」
 あの日のことを初めて訊ねてきた江島に、袖をめくってみせる。
「首もさ、痕があったからずっと襟有りの服しか着れなくって大変だったんだぜ」
 ついでに首をひねって江島の前に首筋を晒す。あの時は気付かなかったんだけど、正直言ってこの首筋に付いてたキスマークの方が腕の噛み痕よりよっぽど困った。
「ごめん」
 申し訳なさそうに言いながらも、江島の視線が首筋に釘付けになってるのが分かる。
「……触んなよ」
「触らないよ」
 江島は俺の牽制の言葉に大げさに首を振った。
「ふーん。もう触りたくなくなったってことか」
「違う。けど、約束しただろ。触らないって。後349日」
「何? 律儀にカウントしてんの?」
「してる。一年間は絶対お前に触らない」
「一年保ったら好きだってのを信じてやるだけで、触りまくっていいってわけじゃないからな」
「分かってる。その代わり、一年経ったら本気で口説かせてもらうからな」
 バカ正直に本当に日にちを数えている江島に思わずたじろぐと、そんな俺を見て江島はにやりと笑う。
 マジなんだ。本気なんだ。だけど俺だって怯んでばかりはいない。
「でもさー、本気で好きなら一年も触らないでいられるもんかなぁ」
「……そんな誘いには乗らないからな」
「これでもか?」
 俺は江島の手を握ってその指に軽く口づけた。
「な、なぁ、これは……俺が触ってることにはならない、よな?」
「うん。俺から触るのはOK。でもお前が触り返すのはNG」
 俺はそのまま、あの日江島が俺にしたように指の間に舌を這わせる。そのまま指先まで舌を滑らせると口にくわえ、そのまま上目遣いに見上げると、江島がごくりと息をのむのが分かった。
「お前、どこでこんなこと覚えたんだよ」
「その言葉、そっくりお前に返してやる。お前が俺にしたんだろ」
 何を言ってやがるんだか。俺は呆れて江島の指から唇を離す。
「俺がやった? あんときに?」
「うん。お前は俺のもっとヤバいとこにもこうした」
「うっそ。マジで? ちっくしょ……何で覚えてないんだよ俺」
 小さく口の中で呟くのが聞こえた。そこまではされてない。大嘘なのに。
「お前、ホントに覚えてないんだな」
 俺は可笑しくなって調子に乗ると、わざと見えるように顔を斜めに向けて舌を這わせた。
 誘いを掛ける俺の意図に気付いて江島は顔をしかめる。
「オニ」
「うん」
「アクマ」
「それから?」
「――愛してる」
「バーカ。そこは"人でなし"だろ」
「オニでもアクマでもお前が好きだ。愛してる」
 真面目な顔をして言う江島に、また怯みそうになる。
「口説くのは一年後じゃなかったのかよ」
「触らなくても口説くくらいは出来るかなーと。速攻で触れるように今の内に口説いておこうかなってさ。――なぁ、あの約束、三ヶ月に負けられない? 代わりに一年間昼飯おごるからさ」
「駄目」
 駄目もと覚悟の提案だったんだろうけど、肩を落として落胆したのがもろ分かりでちょっと可哀想になる。まあ最後までいっちゃった訳じゃないし……。
 でも、それは俺の努力で回避できた訳だ。
 もしも本当に最後までやられちゃってたら許せたかどうか自信がない。
 ――でも
「どうしてもって言うなら、半年くらいにならおまけしてもいいかな」
「もう一声! 四ヶ月!」
「調子に乗るなよ。反省の態度が見えないと延長するぞ」
「分かった。分かりました。反省してます。だから延長だけは勘弁してくれ」
 さすがに調子に乗りすぎの江島にムッとなったのが顔に出ちゃったんだろう。江島は慌てて謝ってくる。

「よし。それじゃそろそろ学食も空いた頃だろうし飯食いに行こうぜ。せっかくのお前の奢りだし、久しぶりにトンカツ定食にしようかなー」
「え? おい、奢りって……」
「期間減らして欲しいんだろ? 反省しつつ、かつ昼飯を奢ってくれるならその度合いに応じて減らしてやる。けど、毎日ってお前そんなに金続くか?」
 俺の提案に、江島はびっくりするほど嬉しそうに目を輝かせた。
「大丈夫。バイトの時間を増やせば何とかなる」
 って、オイオイ。江島は俺より選択してる科目は多いし、おまけにもうすぐテストも始まるってのにそんな無理して大丈夫なのかよ。
 けど、俺のためにそこまでしようって心意気が何だか嬉しい。
「俺って、やっぱ人でなし?」
「いいよ。そんなとこも、全部ひっくるめて好きだ」
「変な奴」
「いーだろ。ほら、飯食う時間が無くなるぜ。早く行こう」
 江島はそう言って俺の肩を叩こうとして、直前でその手を止めた。
「あっぶねー。ついうっかりには気をつけないとな」
「そうそう。――がんばれよ」
 俺に触れない江島に、俺は思いっきり抱きついてやった。

(up: Jan.2007)

Back  Novel Index   

Copyright(c) 2007 Kanesaka Riiko, All Rights Reserved.