『BENDING THE WILLOW』
英語の参考書のコラムに見つけた言葉。
直訳すると『柳を曲げる』で意味が分からないがイギリスのことわざで、日本のことわざに置き換えると『柳に雪折れ無し』に該当するらしい。
しなやかに曲がる柳の枝は、弱そうに見えても雪が積もっても折れることはない。
そんな風に柔軟に生きたいという願いはどこの国にもあるのだと感心して、その言葉は妙に心に残った。
2月の朝日がカーテンの隙間からベッドに差し込む。
彼と始めて心を通わせたのも2月だった。
昨夜の名残の残る肩に、そっと口付けて肩までずり落ちていた布団をかけ直しながら、起こさないように吐息ほどの小さな声で彼の名を呼ぶ。
「……聡」
まだ夢の中の彼から、応えはない。
それでも、ただ繰り返される吐息すら愛おしくて、腕の中に閉じこめる。僅かに身じろぐ彼の柔らかな癖毛が頬に心地いい。
ずっとずっとこうしたかった。
初めて彼を好きだと気付いた日から、彼のことを考えない日はなかった。
彼のことしか考えなかった。すべての中心が彼になった。
何の導もなく生きてきた僕が初めて得た目標。
誰よりも真っ直ぐでしなやかな心を持つ彼の側にいたい。
その為に強くなろう。彼の側にいるのに相応しい人になろう。その願いだけが僕の原動力となった。
僕には彼が必要だ。そして、僕も彼から必要とされたい。
それが僕の生まれて初めて持った、たった1つの夢だった。
篠田聡―― 彼は入学当初から有名人だった。
中学時代から県大会の記録を塗り替え、地元では一目置かれる陸上選手。
僕も彼の名前と顔は地域の新聞やニュースで見て知っていたけれど、スポーツに興味のない僕にとってはどうでもいいことだった。
そんな彼に僕が興味を持ったのは、生徒会の仕事が切っ掛けだった。
彼が近隣の高校で唯一、しかもまだ1年生でありながら全国大会への出場が決まった事がすべての始まり。
その大会に向けての激励会を生徒会主催で行う事になり、生徒会で書記をしていた僕は紹介文作成のために彼のバイオグラフィを調べる事になったのだ。
情報を収集してまとめるという作業は、自分に向いている。そう思ったから生徒会の書記になった僕にとって、この仕事はまったく苦にならずむしろ面白かった。
新聞や雑誌の記事によると、彼のすでに他界した父親も短距離の陸上選手で、病気で引退するまで国際大会にも出場するような有名な選手。母親も学生時代にテニスで国体に出たという。
彼はアスリートな両親を持つサラブレッドだった。
華奢なように見えてしっかりとした体つきは、両親からの遺伝か。
地方新聞に大きく載った彼の写真からは、普段の制服姿からは分からないただ細いだけではない一切の無駄を省いたしなやかさを感じた。
人はみな平等と言っても、天賦の才を持って生まれる者もいる。
むろん努力もしているんだろうけれど、努力だけでは乗り越えられない物がある。
彼はそれを持っている、そんな気がした。
それがどんなものかは想像も付かなかったが、実際に彼に会って話しをすれば何か分かるかもしれない。
同じ学年だがクラスが違う彼とは話をしたことがなかったが、激励会に向けて事前に本人からインタビューを取る予定だったのでゆっくりと話が聞ける。
その日が少し楽しみになった。
しかし、その矢先に彼が学校の帰りに事故に遭って怪我をしたと聞いた。
下校途中に、脇見運転で歩道に乗り上げた車に撥ねられた交通事故だった。
先生の話によれば左腕の骨折だけで済んだらしいが、全治2ヶ月。
脚が無事でも腕を骨折をしているのでは走れない。
さらに2ヶ月で傷が治ったとしても、そこからリハビリなどの機能回復の訓練を始めるのだろうから、大会まで後3ヶ月ではとても出場は出来ない。
せっかく資料を読み込み、彼に興味も湧いてきていたというのに無駄骨だった。
だけどその時は彼と話す機会が無くなったことより、自分の努力が無駄になったことの方が残念だった。
全治2ヶ月では当分学校にも出てこないだろうと思った彼は、意外にもすぐに登校してきた。
三角巾で腕を吊り、頬にも白いガーゼが当てられた痛々しい姿だったが、友人に囲まれその励ましやからかいに笑いながら応えて元気そうな様子だった。
元気が有り余っていて5日間の入院が必要と言われたのを、3日間で退院して学校に来てしまったそうだから呆れた。
学校に来られるようになっても大会には出られないから激励会は取りやめとなり、当然インタビューの必要ももう無い。
彼に接する理由が無くなった僕は、そのまま彼のことなど忘れてしまうはずだった。
僕は記憶力がよいらしく、見聞きして自分で書き留めたことは一度で覚えてしまう。とは言え何度も繰り返して思い出さない事は、そのうちに記憶から薄れて忘れてしまう。
彼のことも遠からず忘れてしまうだろうと思っていた。
他の生徒達も事故のことや大会に出場出来ないことについて彼の噂話をすることはあったが、すぐに飽きてしまったのかだんだんと話題に上らなくなっていった。
そんなある日の昼休み、生徒会の会計の堀口さんに用が出来た僕は彼女の教室へ向かった。
彼女のクラス、1-Dの扉の前で教室の中から久しぶりに彼の名前を聞いた。
「篠田って今度の大会で優勝したら、オリンピックに向けての強化選手になれるはずだったんだろ?」
そう言えば篠田もこのクラスだったから、未だに話題になるのだろうか。
だけどこの話は知らなかった。正式に発表されていない内々の話だったんだな。
自分の知らなかった情報に、思わず手が止まって僕はそのままそこで立ち聞きのような形で聞き耳を立てた。
「せっかくのチャンスをフイにしちゃうなんてドジだよな。つーか車にひかれるなんて結構運動神経鈍くない?」
「て言うか、自信がないからわざと事故ったんだったりして」
「えー? そこまでするかぁ?」
「県内一でも全国には全然通じなくて大恥とかだったら嫌じゃん」
教室内の話が単なる噂話から中傷に変わり出すと、誰かがガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がったらしいのを察して、僕も扉を勢いよく開いて中よりさらに大きな音を立てた。
戸口付近の席で篠田の噂話をしていた生徒だけでなく、教室内の視線が一斉にこちらに集まるが、僕は素知らぬふりで中を見渡した。
立ち上がったのは教室の中央当たりにいた生徒。篠田ではなくその友人のようで、隣の席に座っていた篠田はそれを止めるように彼の制服の袖を掴んでいる。
その篠田の頬のガーゼは絆創膏に変わっていたが、腕はまだ三角巾で固定されていた。
教室内はまさに一触即発の事態だったようだ。
篠田の友人は僕が扉を開けた音に気を取られて気がそれたようだが、再び聞こえよがしに中傷の言葉を口にした生徒に文句を言いに行こうとするが、篠田はその裾を引っ張って止めた。
「座んなよ、山本」
篠田を中傷していた2人の男子生徒を睨み付ける友人を篠田がいさめる。
「でも、サトッちゃん! あいつら――」
「相手になっちゃ駄目だよ。それより佐武先輩が考えてくれたトレーニングメニュー、見てくれよ。お前にも手伝って欲しいからさ」
篠田はただの体育馬鹿ではないらしい。
リハビリのためのメニューが書かれているらしい紙を、山本という友人に差し出し話を変えて中傷してくる奴らを無視しようとしている。
僕もその緊迫した雰囲気に気付かぬふりで、噂話をしていた2人の生徒に話しかけた。
「堀口さんがどこに居るか知らないかな? 生徒会のことで用があるんだけど」
「堀口さんなら合唱部の部室だと思う。彼女いつも合唱部の子とお弁当食べるから」
声を掛けた彼らは堀口さんの居場所を知らなかったらしく何も言わずに僕から目を逸らしたが、少し後ろにいた女生徒が教えてくれた。
堀口さんがここにいないならこの場所にもう用はない。
女生徒にお礼を言って僕はその場を後にしたのでその後に彼らがどうなったかは知らないが、中傷された本人の篠田があの様子なら、大きなトラブルにはならないだろう。
篠田は人がいいのか大物なのか、はたまた鈍いだけなのか。
とにかく僕には関係のないことだったので、それ以上気にすることはなかった。
その日の放課後、生徒会の仕事で遅くなった上に、教室に忘れ物をした僕は下校時間も過ぎた誰もいない校舎を足早に自分の教室へ向かって歩いていた。
何気なく通り過ぎようとした教室の半分開いた扉の中に、人影を見つけて立ち止まる。
通り過ぎればよかったのだけれど、何故かそこで足が止まってしまった。
昼間にもこの場所で立ち止まった。その既視感がそうさせたらしい。
1−D。会計の堀口さんの、そして彼の教室。
教室の中の生徒は、机に向かってうなだれるように肘をついて椅子に座っている。
窓からの夕日で逆光になりその顔は分からないが、あそこは篠田の席の辺り。
それに俯いた首筋に腕を吊っている三角巾の結び目が見える。
間違いなくあれは篠田だ。
あの明るい彼が、放課後の教室に差し込む夕日で影のように黒く見える。
黒い影は机に同化するように伏せて、静かに肩を振るわせ――泣いていた。
あんなに賑やかで明るい彼が、こんなに静かに泣くなんて意外だった。
涙の理由は昼間のことだろうとすぐに分かった。
やっぱり悔しくないわけがない。
オリンピックの強化選手に選ばれる機会なんて、スポーツ選手にとって何より大切なチャンスだったろう。
それを理不尽な事故で奪われた上に、あんな風に揶揄するようなことを言われれば誰だって腹が立つ。
だけどどんな理由であれ暴力沙汰になれば処罰を受ける。
だから悔しくても辛くても、自分とそして友人のために平気な振りをして耐えたんだ。
その悔しさと憤りが今、静かに彼の頬を伝っている。
事故のことも、友達の前でも家の中でも誰にも心配を掛けまいとずっと平気な振りをしてきたのだろう。
そして、これからもひとりで耐えるんだろう。
言葉を掛けられるような関係でもないし、掛ける言葉も見つからない。
しばらくその場に立ちすくんだ僕は、ただ静かにそっとその場を離れた。
薄暗い廊下を歩きながら、彼は恐らくもう駄目だろう。そう思った。
彼にとってこれが恐らくは初めての挫折だろう。
失ったチャンス。大きな怪我。有名故に受ける妬みや中傷。そのショックから立ち直ることが出来ずに陸上界から消えていくんだろう。
僕だったらそうなるだろう。とても耐えられない。
いい選手だったのに勿体ない。調べ上げた彼の記録の数々が頭をよぎる。
だけど僕は朝礼で表彰される姿は何度か見たけれど、彼が競技会で走っているところは見たことがなかったと気が付いた。
彼の走る姿が見てみたかった。
だけどそれは、叶わぬ願いで終わると思った。
その後も、彼のことは何となく気になるようになった。
登校途中で、休み時間の移動の最中で、知らず知らずに彼の姿を探していた。
そうして見つけた彼は、あの日のことなど幻だったのかと思うほど明るかったが、じっと見ているとひとりになったときなどに、空を見上げて少し寂しそうな表情をするのに気付いた。
そして、休み時間にやたら彼と階段ですれ違うのにも気付いた。
そんなにいつもいつも階段を使う教室移動が有るわけじゃあない。
彼はリハビリがてらに、休み時間の度に階段を上り下りする運動を始めたんだ。
不自然に大きく脚を上げたり腰にひねりを加えたり、腕にあまり負担がかからない下半身をメインにしたトレーニングらしい。
ギブスは取れたもののまだ手が自由にならない彼を、山本ともう1人の生徒がサポートしている。
篠田は動けるのが嬉しくて仕方がないという風に張り切っていた。
「あんまり足を上げすぎると腰に来るぞ」
「でも筋肉の強化が目的なんだから、ある程度は負荷を掛けないと」
「無理せずやる。その約束が守れないなら止めさすぞ」
「どうやって?」
「お母さんに言いつけてやる!」
「俺は小学生か! って、わーかった、分かった。ごめんなさい」
ふざけながらも真剣に心配してくれているらしい山本に、篠田もふざけるのを止める。
「腕でバランスが取れないんだから、ふざけてると怪我するぞ。真面目にやれ」
「はい」
さらに先輩らしき人の注意に気を引き締めなおしたように真面目に返事をすると、篠田は再び階段を上り始めた。
どうしてそこまで走ることにこだわるのか。
夢半ばで病に倒れた父親のためか、それとも他に何かあれほど夢中にさせる物が陸上にあるのか。
それが知りたくて、彼の復帰第一戦の陸上競技会に僕は初めて夕陽丘の競技場まで観戦に行った。
その僕の前で彼はゴールテープのないゴールに、それでも笑顔で走り込んだ。
復帰第一戦とあって成績は8人中5位だったが、そんなことよりも走れたことが嬉しくて堪らないというような最高の笑顔だった。
僕には陸上のこともスポーツのことも何も分からないが、風を切って走る彼の体は完成された体と言うのだろうか、筋肉が付いているはずなのにしなやかで。そしてその笑顔は、今まで見たどんな人よりも美しかった。
『BENDING THE WILLOW』
不意にこの言葉が心に浮かんだ。
しなやかな柳は折れない。しなやかな心は壊れない。
彼はあの伸びやかでしなやかな体のその中に、もっとしなやかに強い心を持っていた。
彼の中には壊れない心がある。目が離せない。走り続ける彼をずっと見ていたい。
僕はそんな彼に近づきたくなった。
ただの友人では駄目だ。しなやかだけれど真っ直ぐな彼に恥じない、その隣に立つのに相応しい人になりたくなった。
どうすれば彼に相応しくなれるのか。僕が彼を見るように、憧れの目で僕を見てくれるようになるのか。
取りあえず、手っ取り早く目立つ為に僕は生徒会長になる事にした。
そして真っ直ぐな彼が認めてくれるくらいに品行方正で清廉潔白。そんな完璧な生徒会長になろう。
きっと出来る。やってみせる。こんなに心が躍ったのは初めてだった。
そうして去年の2月。彼のために作り上げた完璧な生徒会長の姿は、彼の心を射止めた。
初めての夢が叶ったあの瞬間を、僕は一生忘れない。
そして何故走るのかという問いに対する彼の答えも忘れない。
「走るのが好きだから」
あっけない一言。単純にして明快。他に何もない。
ただ好きという気持ちがこんなに強いとは知らなかった。
だけど、今なら分かる。彼が好きだ。その気持ちが僕を突き動かした。彼のためならどんなことでも出来る。何も惜しくはない。
ただ彼を好きだという気持ちが、僕をそうさせた。彼が今の僕を作ってくれた。
夢も目標もないつまらない生き方から救ってくれた。
彼が側にいてくれるなら、どんなにだって強くなれる。彼と共にあるためなら何でもする。
「……ん」
腕の中の聡が小さく声を漏らす。
決意を新たにするのについ力が入って、腕の中の聡を強く抱きしめてしまったらしい。
聡は薄く瞼を開くと、僕の顔を見上げてきた。
「ん……んーっ、今、何時?」
寝ぼけ眼にかすれた声で呟く唇に軽くキスをする。
「まだ少し早いよ。もう少しこうしていようよ」
「うん」
聡は再び微睡める嬉しさに微笑み、今度は彼が僕を布団の中に引き込んで抱きしめてくれる。
暖かな布団と聡の腕があれば、何もいらない。
――と、言いたいところだけれど今日は出掛けなければいけない。
毎年バレンタインにはふたりでチョコレートを買いに行こうと約束をしたんだ。
今年も来年も、ずっとずっと。
だけどまだ時間が早い。どこも店は開いていない。
ふたり同じベッドでもう少し眠ろう。
すでに再び眠りに落ちた温かな彼の腕の中に潜り込み、目を閉じる。穏やかな彼の胸の鼓動が僕を夢の中へと誘う。
このまま彼を、夢の中まで追っていきたい。この優しい2月の光の中で――