あなたの胸で眠らせて −11−

 安積さんの部屋の前まで来ても、チャイムを押す決心が付かない。
 もう今日は来ないみたいな口ぶりで出てきたのにノコノコ帰って来ちゃって。おまけにこんなみっともない恰好。
 オレは改めて自分の恰好を見て溜息をついた。紺色のズボンは転んだときに付いた泥で裾と膝が白茶気てるし、シャツの裾も引っ張られたときの名残か片方だけ伸びてる気がする。
 取りあえずズボンの泥だけでも何とかしようと手で払ってみると、転んだときに打ち付けた右膝の辺りは、ちょっと手が当たっただけでじんとした痛みが走る。ズボンが破れてはいないから、切れたりとかはしていない打ち身だけだと思うけど痛い。
 派手に転んだ上にずっと歩きづめだったもんな。休まないともう足が、と言うか気力が限界だった。
 ここで少しだけ休ませてもらって、それからバイト先にお金を借りに行こう。借りられたら……借りられなくてもここには戻って来ちゃ駄目だ。これ以上安積さんに迷惑は掛けたくない。
 それにこれ以上居続けて、安積さんの彼女と鉢合わせなんてことにはなりたくなかった。
 部屋の棚に置かれていたパールピンクのマニキュアに、美容室なんかでよく見るお洒落に関する情報雑誌はどう考えても彼女の物。よく泊まりに来るから置いていったんだろう。
 オレだって中性的な顔立ちの方だけど、女物の服はさすがに似合うと思えないしマニキュアもしない。
 だけど安積さんはそんなのが似合う女の人が好きなんだ。
 ごく当たり前のことなんだけど、何か落ち込む。だから顔だけは合わせたくない。
 でも、そのことでちょっと気になることがあった。別にそうだったとしてもオレには何の関係もないことなんだけど、気になる。
 それはともかく、いつまでも人ん家の玄関前に突っ立ってるわけにはいかない。
 オレは意を決して玄関のチャイムを鳴らした。



「おかえり」
 安積さんは扉を開けるなり全開の笑顔で迎えてくれた。
 ―― “おかえり” だって。 “いらっしゃい” じゃなくて “おかえり” ってお客じゃなくて家族や同居人に言う言葉だ。
 浩二はオレが「ただいま」を言っても「ああ」とか「うん」とか返事してくれる程度だもんな。言われ慣れていない言葉がジーンと胸に響く。
 だけどすぐに安積さんの顔から笑顔は消えて、険しい表情になった。
 ああ、これはもしかして彼女さんがやって来たと勘違いして扉を開けたってことかな。さっきのは彼女に向けるはずの言葉と笑顔だったのか。なのに立ってたのはオレで……安積さんはがっかりしちゃったんだ。
 オレの方もぬか喜びに気付いてがっくりしたんだけど、安積さんはそんなオレの右腕をそっと掴んで自分の方に引き寄せた。
「これどうしたんだい? とにかく早く洗って消毒しないと」
 安積さんが何を言ってるのか分からなかったけど、心配そうな安積さんの視線をたどって自分の腕の肘の辺りを見て驚いた。
 血まみれって程じゃないけど、すりむいて血が出てる。大したことはないみたいだけど、肘から二の腕にかけて結構広範囲にすりむいてるっぽい。
 安積さんはこれを見てびっくりしただけか。よかった。と、喜ぶべきかどうか。
 気が付いてみると、確かに怪我をしてる肘の辺りは脈に合わせるようにジンジンと地味な痛みがあった。けど膝の方がずっと痛いし、血はにじんでる程度で流れるほどじゃないから気付かなかったんだ。
 でも例えにじんでる程度といえど、肘から二の腕にかけて血が出てるのをそのままにしてるってのはスプラッタというかホラーというか。こんな腕したヤツが歩いてたらびっくりして見ちゃうよな。
 街中でみんながオレのことを見てる気がしたのは、気のせいじゃなかったんだ。
 納得すると同時に恥ずかしさがこみ上げてきた。
 思わず赤面して固まってるオレを、安積さんが玄関の中に引っ張り込んでくれた。
「ほら、早く入って」
「あ、はい。……いてっ」
 靴を脱ごうと屈むと、ズキンと響く右膝の痛みに思わず声を出してしまった。
「大丈夫? 足も怪我したのかい? 脱がせてあげようか」
「いえ、平気ですから」
 靴を脱ぐのを手伝おうと、オレの前にかがみ込もうとする安積さんから思わず一歩下がってしまう。どうも「脱がせる」という単語に過剰反応してしまったらしい。
 安積さんはそんな人じゃないって分かってるんだけど、松坂に言われた「下心があって構ってきたに決まってる」って言葉が心のどこかに引っかかってるみたいだ。
 確かに何の見返りもなくこんなに親切にしてくれる人には、今まで会ったことがない。
 しかも友達や多少でも知り合いっていうならともかく、ほんの数日前にあったばかりの知らない奴に普通はここまで親切にしないよな。
 安積さんは優しいから……でももし万が一それだけじゃなかったら。オレ人間不信で立ち直れなくなっちゃうぞ。
 だけどそんなオレの心配はまるきりの杞憂だった。


 靴を脱いだオレを安積さんはキッチンの流しの前に連れて行くと、給湯器のシャワーで腕の傷の血と泥を洗い流してくれた。
「これじゃ服まで濡れちゃうね。脱いでからした方がいいかな。足も怪我してるんだよね? もう全部脱いでシャワーを浴びてきた方がいいんじゃない」
「え、えっと、あの……」
「干しておいたパンツも乾いてるし、着替えも出してあげるからシャワーで血と泥を流しておいで。服にもちょっと血が付いて汚れちゃってるから、そのまま洗濯機に放り込んで。今すぐ洗えば落ちるだろうから。ああ、消毒液はどこに仕舞われちゃったんだろう」
 安積さんは戸惑うオレを脱衣所に押し込むと、洗濯しておいてくれたパンツと着替えのジャージをオレに渡し、自分は押し入れを漁って消毒液を探し始めた。
 相変わらず、いい人過ぎます安積さん。
 こんなにいい人を疑うなんて……オレは自分が恥ずかしくなるのと同時に、やっぱりいい人過ぎる安積さんが心配になった。
 家から閉め出されたオレが人の心配なんて片腹痛いって所だろうけど、こんなに誰彼構わず親切にして部屋に入れちゃって、その内誰かに騙されてひどい目に合わされたりしないだろうかと、余計なお世話な事を考えながら服を脱いだ。

 素っ裸になると、オレはお風呂の鏡で他に怪我はないか確認にかかった。
 幸い足の方はやっぱりただの打ち身みたいで赤くあざになってただけだった。血が出てるのは右腕の傷だけ。
 後は左の手のひらに、地面に手をついた際に出来たらしい血も出ていないような軽い擦り傷がちょっとある程度だった。
 怪我の位置を確認して傷に障らないようにぬるめのシャワーを浴びると、気が緩んでホッとすると同時に情けない気持ちが湧き上がってきた。
「浩二の馬鹿。オレ、怪我しちゃったんだぞ。……松坂に襲われたんだぞ」
 あれもこれもそれもどれも、みんな浩二が悪いんだ。
 松坂の恋人なんかと浮気して、オレのこと閉め出して。
「浩二も松坂も雅洋も、みんな大嫌いだ。みんなまとめてインポにでもなっちまえ」
オレの悪態はシャワーに紛れて下水に流れていく。グルグル回りながら排水溝に流れていく水を見ていると、ちょっとすっきりした。
 気を取り直して一端シャワーを止めると、傷が出来てる腕の辺りはそっと、そして松坂になめ回された首筋はしっかり丹念に洗った。
 思い出してもゾッとする。股間を蹴り飛ばしてやれなかったのが心底残念だ。
 でもあんな状況から逃げられただけでよしとしないと。だけどやっぱり置いて来ちゃった紙袋の全財産と服が惜しまれる。服は洗えばまた着られたのに。
 それに松坂に匂いを嗅がれたりしたら……あいつはもうオレの中ではただの“嫌な奴”から“変質者”にシフトアップしていた。
 袋の中にパンツを入れてなくて本当によかった。安積さん、パンツを洗ってくれてありがとう。オレは改めて安積さんのありがたみをひしひしと感じた。


 考え事をしながらシャワーを使っていたら結構時間がかかってしまった。のんびりしすぎた事に気付いたオレが慌てて風呂場を出ると、部屋はしんと静まって人の気配がないようだった。
「……安積さん?」
 腰にタオルだけ巻いてそっと脱衣所の扉を開けて部屋をのぞくと、そこにはやっぱり安積さんの姿はなかった。
「ああ、もう上がった? ちょうどよかった。消毒液が見つからないから買ってきたんだ。ほら、おいで」
 さらに室内の様子をうかがおうと身を乗り出したとたん、玄関の扉が開いて安積さんが入ってきた。オレのためにわざわざ消毒液を買いに行ってくれてたらしい。
 それはありがたいんだけど、安積さんは玄関を上がるとそのままオレの腕を掴んで部屋へ向かう。
 ちょっと待って。オレ、バスタオルを腰に巻いただけのほとんど裸なんですが!
「あ、あのっ」
「ああ、ごめん。足が痛いんだったよね。大丈夫? そこのベッドに座って」
 安積さんはオレの慌てっぷりを単に歩いたせいで傷が痛んだと勘違いして、優しく肩に手を置いてそっとベッドに座らせてくれた。
 すでに消毒液やガーゼをテーブルに置いてスタンバった安積さんに、パンツくらい履かせてくださいとも言えず、オレは大人しく従うしかなかった。

「はい、このタオルで水気を取って」
 手渡されたタオルで腕の水滴を拭き取ると、安積さんはスプレー式の消毒液を拭きかけて消毒し、その後はガーゼに白っぽいジェル状の物を塗って傷に当ててくれた。
「これ、何ですか?」
「ワセリンだよ。傷は乾かさない方が跡が残りにくいから、これをべったり塗って傷を塞いじゃうといいんだ」
 その後さらに乾燥防止に腕をラップでくるんでから、筒状になったネットでそれがずれないように留めてくれた。
「手慣れてますね」
「僕は高校、大学とサッカー部でキーパーをやってて傷を負うのはしょっちゅうだったから」
 手際の良さに感心するオレに、安積さんはにっこり笑った。
 やっぱり安積さんって体育会系だったんだ。肩幅もあっていい体つきしてるもんな。間近に見る安積さんのがっしりした体つきに思わず見とれているオレに気付かず、安積さんはさらに手当を続けてくれる。
「はい、次は足ね。転んで打ち付けたの?」
「あ……あの、はい」
 安積さんは足の様子を見ようとオレの前にしゃがんで、すでに赤紫のあざが出来てる右膝に手を掛けた。
「痛む? ちょっと湿布を貼るだけだから我慢して」
 そんな近くでかがみ込まれるとタオルの中が……見えちゃうんじゃないかとうろたえたけど、安積さんはまったく気にせず、ただオレが痛む場所を触られるのを嫌がってると思ったのか気遣ってくれる。
 ほら見ろ。やっぱり安積さんはまったくのノーマルだ。変な気なんてみじんも起こさないじゃないか。
 でも、まるきり気にされないのもちょっと寂しかったりして……
 オレがそんな馬鹿なことを考えてる間にも、安積さんは湿布に軽くハサミで切れ込みを入れて、曲げ伸ばししても剥がれにくくしてから膝に貼ってくれた。
「他に痛いところはない?」
「ないです。ありがとうございました」
 膝の湿布がひんやりして気持ちいい。手当てしてもらってほっこりしたオレと違って、安積さんはまだ気を抜かない。
「打ち身の痛みは次の日に出たりするから、今痛くなくても予防的に湿布を貼った方がいいんだけど、他に打ったところはない? 一体どういう状況で怪我をしたの?」
「あー……ちょっと派手目に転んだだけで、他は大丈夫です」
「ちょっと派手目にか」
 オレの言い方が面白かったのか、安積さんが笑う。オレもつられて笑おうとして、笑おうとしたその瞬間にくしゃみが出た。
 ぬるめのシャワーしか浴びてないから身体が冷えちゃったみたいだ。
「冷えてきた? 服を取ってくるね」
 そこでようやくオレがタオル一丁だと気付いたらしい安積さんは、脱衣所に置いていた着替えの服を持ってきてくれた。

「そうだ、もう晩飯時だしお腹空いてるだろ? 君が持ってきてくれたハンバーグで晩飯にしよう。用意してくるからちょっと待ってて」
 オレに服を渡すと、安積さんはいそいそと晩ごはんの用意をしにキッチンに向かおうとするんで慌てて引き留める。
「あのっ、オレ、もう帰りますから」
「ああ、そっか。泊めてくれる友達が見つかったんだ。晩飯もその子と約束したの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……でも……」
「ハンバーグが食べたい気分じゃない?」
「そういうわけでは……」
 晩ごはんを食べさせてもらうのに何も不都合なんて無いどころか好都合。だけどいつまでもここにいたら出て行くのが辛くなる。それをどう言えばいいのか分からなくて言葉に詰まる。
「じゃあちょうどふたり分有るんだから一緒に食べよう。大体君が持ってきてくれた物なんだから、遠慮すること無いよ」
「その前にオレ、いっぱい食べさせてもらってるんですけど」
 一宿二飯のお礼に持ってきたはずの物を、遠慮せずに食べちゃったら駄目だろう。だけど安積さんはいつもの笑顔で受け流す。
「いいから。ああ、髪もまだ濡れてるじゃない。ちゃんと乾かさないと風邪引くよ。そうだ、熱い紅茶でも入れてあげるから待ってて」
 安積さんはまだ濡れてるオレの頭を撫でると、キッチンスペースに行ってしまった。


 ちょっと休ませてもらったら出て行くはずだったオレは、安積さんのジャージを着て安積さんのベッドに座って、安積さんの入れてくれた紅茶を飲みながらすっかりくつろぎモードに入っていた。

「こんなはずじゃ無かったんだけど……」
 無かったんだけど、だけどオレは立ち上がることが出来なかった。

(up: 23.Sep.2007)

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