結局、オレは今夜もまた安積さん家の食卓にお邪魔することになってしまった。
目の前にはオレのバイト先のファミレスの人気メニューの『和風ハンバーグ』が、普段とちょっぴり姿を変えて並んでいる。
お店では大根おろしと刻みネギをトッピングしてるんだけど、安積さんは炒めた玉葱とおろし生姜をトッピングしていた。
これはこれでまた美味しそう。ついでにお皿の脇には、粉吹きイモとニンジンとブロッコリーの温野菜を付け合わせと抜かりがない。
隣に置かれたスープはカボチャかな? 茶色がかったオレンジ色のスープからは、ぬくぬくと湯気が上がっている。
お茶碗に盛られたご飯も炊きたてっぽくつやつやしていた。
おまけにセロリ入りのコールスローの小鉢まで添えられて、このまんまお店で出せちゃうくらい立派な晩ご飯だった。
「じゃあ宮本君、ありがとうね。いただきます」
安積さんはハンバーグを持ってきただけのオレに礼を言ってから食べ始めた。
本当にこの人は行儀がいいというか人がいいというか。
呆れるオレに気付かず、安積さんはハンバーグを一口食べてにっこり笑った。
「うん、美味しい。お店のハンバーグってしっかりしてるんだけど硬すぎなくて、どうしたらこんな風に出来るんだろうね」
「お店には出来上がって味も付いて冷凍された状態で来るんで……ちょっと分からないです」
役立たずで申し訳ないけど、そうとしか答えようがない。オレは自分でハンバーグを作ったことがないし誰かに作ってもらったこともないから、お店の物とそうでない物の違いすら分からないからこんな受け答えしかできなかった。
もしかしたら子供の頃には作ってもらってたのかもしれないけど、あったとしても覚えていないほど昔のことでしかない。
「そうだったね。ファミリーレストランとかチェーン展開してる飲食店では、工場でまとめて作って全国のお店に卸すから味が均一なんだって聞いたことがあるよ。あ、宮本君も食べなよ」
「はい。いただきます。このスープはカボチャですか?」
お昼が遅かったせいでまだあんまりお腹は空いてなかったんだけど、こう美味しそうに盛りつけられて目の前に並べられると食べたい気分になってきた。
オレもスプーンを持って、こってりしたスープをかき混ぜながら訊いてみた。
「うん。カボチャのフレークで作ったんだ。フレークは牛乳で溶かしてコンソメと塩で好きに味付けできるから手軽に好みの味が楽しめるから好きなんだ」
手軽って……普通は手軽と言えば、レンジで温めるだけのインスタントの物を言うんだと思うんだけど。
とにかくそんな手間暇のかかったカボチャのスープをスプーンの上でしっかり冷まして口に運ぶと、確かにお店とかで飲むカボチャスープより味付けが控えめというか、カボチャ本来の味がちゃんと感じられるみたいで美味しい。
「本物のカボチャを飲んでるって感じですね」
「そうだろう? でもこのフレークはこの辺りの店では売ってないから、大きなデパートとかに行ったときに買い込むんだ」
やっぱり安積さんって料理にこだわる人なんだ。感心するオレに、こだわりの人は今度はハンバーグにこだわりを見せ始めた。
「そうだ。このハンバーグだけど、お店では大根おろしを乗せてる?」
「そうです。これは玉葱とおろし生姜ですよね? これも美味しそうですよ」
安積さんはハンバーグのトッピングについて訊いてきた。やっぱり普通は和風ハンバーグと言えば大根おろしって分かっていてあえて玉葱と生姜に替えたんだ。
「やっぱり。だけどお店のみたいな加熱できるステーキ皿に盛りつけるならそれでいいけど、家の普通のお皿で食べるのに大根おろしを乗っけたらハンバーグが冷たくなっちゃうんじゃないかと思って玉葱のソテーに替えたんだ。宮本君には大根おろしの方が良かったかなとも思ったんだけど、いつものとちょっと変わった味で食べてもらうのもいいかと思って」
「ちょっとトッピングを替えただけで、ソースはそのままでも味って変わる物なんですね。これも美味しいですよ」
お世辞じゃなくてこの組み合わせはマジで合う。
安積さんのはいつもの和風ハンバーグより炒めた玉葱が乗ってる分こってりしてるけど、それにおろし生姜が混ざると後口がさっぱりしてしつこくは感じない。
安積さんの食に対するこだわりとかを聞かせて貰いながら、普段とちょっと違った和風ハンバーグを美味しくいただいて、今日も幸せな晩ご飯だった。
食後には皿洗いを申し出たけど足の打ち身を理由にそのまま座ってなさいと言われ、オレは足を伸ばしたままベッドにもたれるというだらしのない恰好で座らせてもらったまま、まさに上げ膳据え膳状態だった。
今日は散々なひどい1日だったけど、終わりよければすべてよしって感じ。だけど、やっぱりこのままここに泊めて貰うわけにはいかない。安積さんが気を使わないように、泊めてくれる友達が見つかったって事にして出て行かないと。
だけど片付けを終えた安積さんは食後のコーヒーを持ってきてくれたんで、これだけは飲ませてもらってそれからにしよう。
そう思っていたオレに、安積さんはコーヒーを飲みながらちょっと真面目な顔をして訊いてきた。
「怪我の具合はどう? 他に痛むところは無い?」
「あ、はい」
安積さんの真面目な顔に、オレもちょっと緊張して答える。
「で、どういう状況になって派手に転んだの?」
「どういうって……」
オレが何か訳ありで怪我をしたことに、安積さんは気付いてたんだ。
だけど美味しく楽しく食事するために、この話題を持ち出すのは食べ終わるまで待っててくれてたらしい。
「友達とケンカにでもなった?」
「いえ、その……ケンカをしたわけじゃないです。ただ言い争いになって……逃げようとして途中で転んだだけです」
「そんな走って逃げなきゃいけない状況になるなんて、ただの言い争いの範囲を超えてると思うよ」
実はレイプされそうになったんで必死で逃げたんです。とは言えないし、どうしようかな。
「そう言えば、彼女にマンションの方へ連絡してもらうって話はどうなったの?」
言い訳を考えてる間に、安積さんは言いたくないのを察して話題を変えてくれた。
けど、そっちの話題もしたくないんだよね。とはいえ散々迷惑掛けてる上に心配してくれてる安積さんに言わないわけにもいかない。
「朝の内に行ってみたんですけど、まだでした」
「朝か。それじゃあ、もう連絡が付いてるかもしれないね。もう一度行ってみる?」
「昼まで待ったんですけど連絡はなくて……だから、今日はもう行っても無駄かなって……」
安積さんは時計を見上げて時間を確認して言ってくれたけど、もし浩二がオレと別れたがってるとしたらいつまで待っても連絡はしてくれないだろう。
それに、もしかしたら松坂がマンション前で待ち伏せてるかもしれない。しばらくはあそこに近づきたくない。
「足が痛いんだったら車で連れて行ってあげるから、心配しなくていいよ」
オレが足が痛いから行くのをためらってると思ったのか、安積さんは棚の引き出しから車のキーを出してきた。
連れがいれば松坂が居たとしても大丈夫だ。特に安積さんみたいな体格のいい人が一緒なら、絶対に近づいてこないだろう。
だけどもしあいつが突っかかってきたら、オレが付き合ってる相手は男だって安積さんにバレてしまう。そうしたら、もう会ってももらえなくなるかもしれない。それは嫌だ。
安積さんは優しいから、本当のことを知ってもオレを嫌ったりはしないかもしれない。
だけど嫌われないって確証はない。安積さんと一緒にマンションには行きたくないオレは、必死で安積さんを止めた。
「あの、本当に今日はもういいです! あ、そうだ。おれ、もう友達の所に行きますから」
「友達とはケンカというか、言い争いになったんじゃないの?」
「いえ、言い争いをした相手は友達じゃなくて――」
「友達じゃないって……じゃあ誰と?」
ヤバ。ついポロッと言っちゃったオレの一言を、安積さんは聞き逃さなかった。
「……もしかして、マンションで彼女の浮気相手と鉢合わせしたの? それで言い争いになった?」
鋭いなあ。でも惜しいけどちょっと違う。正しくは浮気相手の恋人。
でも安積さんは浩二を女だと思ってるわけだから、当然オレの彼女の浮気相手は男で、その恋人は女だと思うだろう。だとすれば正直に浮気相手の恋人と言い争いしたと言うと、オレは女と口ゲンカして逃げ出したというとんでもなくヘタレた男って事になってしまう。
ここは一部を略して“恋人の浮気相手の男”と言い争いしたことにしよう。
ちょっと苦しいけど嘘ではないし。
安積さんには隠し事はいっぱいしてるけど、なるべく嘘はつきたくない。
だから詳細を省いて取りあえず肯定しておく。
「まあ……そんなところです」
「なんて奴だ! 君もそこに住んでると知っててまたノコノコと彼女に会いに来たのかい? それとも彼女が出張に出たのを知って君と話し合いに来たのか? どちらにせよひどい。こんな怪我までさせて」
「いえ、あの、怪我は本当に自分で転んだせいです」
「そうだとしても、そんなに必死で逃げ出したくなるほどひどいことを言われたって事だろう? ただ転んだだけでそんな場所を擦りむいたりしないよ」
安積さんは険しい表情と口調で、本気で怒っているみたいだった。
浮気した彼女と仲直りしろなんて、結構浮気に関しては大らかな感じだったのに。女の浮気は許せても間男の方は許せないとか? 安積さんの倫理観もよく分からないな。
安積さんの倫理観についてつい考え込んでしまったオレに、安積さんは自分が声を荒げたことにオレがびっくりして黙ってると思ったのか、声のトーンを落として遠慮がちに話を続けた。
「昨日今日に知り合ったばかりの僕が口出しする問題じゃないかもしれないけど、君はもう少し付き合う相手を選んだ方がいいよ。宮本君はなんて言うか……可愛いというか綺麗だから、付き合いたがる奴がいっぱい来るんだろうけど、付き合う相手は選ばないと。彼女も君という同棲相手がいるのに部屋に男を引っ張り込むなんて……その……失礼な言い方だけど、ちょっと常識に欠ける人みたいだし。君たちはお互いにそういうのを分かった上で“縛られない付き合い”をしてるみたいだから仲直りできればいいかと思ったけど、こんなことがあるようじゃ今後のことが心配だよ。浮気相手も相当非常識な奴みたいだから、また何か起こるんじゃないかって……」
話を聞いて納得がいった。安積さんはオレと違って倫理観がユルい訳じゃなく、他人の生き方を極力否定しない方針なだけなんだ。
――だけど、安積さんに心配されてしまった。
オレから見れば安積さんの方がよっぽど人に騙されて利用されそうで心配なのに。
でも安積さん、オレのこと可愛いと思ってくれてたんだ。なんて変な部分に喜んでしまう。でも安積さんのオレに対する“可愛い”は犬猫に対する“可愛い”と同意語みたいな気がするけど。
「あの……ごめんね。余計なお節介で説教なんてしちゃって。だけど君は何だか放っておけなくて。あ、頼りなく見えるってわけじゃないんだけど、その……」
「心配してくれて嬉しいです」
思わず変な方向に考えが行っちゃって黙り込んじゃったオレに、安積さんはそれまでの真剣な表情から一変して申し訳なさそうな顔で謝ってくる。
そんな叱られた犬みたいな目で見てくるのは反則だろう。元から怒ってたわけじゃないけど、怒ってたとしてもこんな顔されたら許してしまう。
確かに他人の恋愛問題に口を出すのは、親しい相手だとしてもただの余計なお世話だろう。だけどオレには、オレのことを本気で心配してくれる人なんて居ないからすごく嬉しい。
友達なら何人か居るけど、そんなに深い付き合いをしてる訳じゃないからこんな忠告はしてくれないだろう。
安積さんは本当にいい人だ。
だからこれ以上迷惑を掛けないように、出て行こう。
そう決めたオレの決意は、安積さんのあっけらかんとした言葉にあっけなく挫けた。
「君の服はもう洗っちゃったから、着替えがないよ。僕の服をそのまま着ていってくれてもいいけど、ちょっとダブダブ過ぎてそのまま外に行くのはお薦めしないな。そう言えば前に着てた服は? 大学に置いてきたの?」
「あ、あー……あれはその……置いて来ちゃいました。学校じゃなく……口論の後で逃げる時に、うっかりその場に袋ごと……」
あの場合はそうするしかなかったけど、詳しく状況を知らない安積さんからはバカだと思われても仕方がない話だ。
呆れられるか叱られるか、そう思って恐る恐る言ったオレに、安積さんは思いっきり吹き出してくれた。
「あはははははっ、宮本君はホントに手ぶらが好きだねぇ。もう何も持たずに飛び出しちゃダメって言っただろ」
「笑い事じゃないです! オレ、その袋の中にお金とかも全部入れてたんですよ」
「そっか、ごめん。それは笑い事じゃないね」
そう言いながらも、安積さんはまだ笑っている。声は殺してるけど、腹筋の辺りがぴくぴくしてるからバレバレだ。
「いや、笑ってごめんね。お詫びにバイトを紹介してあげようか? お金がないと困るだろ」
「え? バイトって……」
日雇いのバイトか何かかな? 確かに日銭が稼げるのは嬉しいけどどんなのだろう? オレは元々体力がない上に、足の打ち身も痛むからきつい仕事は無理だぞ。
不安になるオレに、安積さんはようやく笑うのを止めて説明をしてくれる。
「ちょっとした荷物運びだよ。ただ時間が何時に始めるか分からないから家に泊まってもらうことになるけど」
それはつまり、安積さん家に泊めてくれるためのただの口実なんじゃないのか?
「そんなに重い荷物じゃないんで、足の怪我にもそれほど障らないと思うから頼まれてくれない?」
「――はい」
「よし。じゃあ頼むね」
口実だろうと何だろうと、ここに泊まれるならなんでもいい。
頷いたオレの頭を、安積さんは優しく撫でてくれた。