安積さんとふたりで散々触り心地を確かめて選んだ、選りすぐりの低反発マットレスの寝心地はすっごく良かった。
ぐっすり眠って迎えた月曜日、オレは朝からバイトに出掛けた。
また安積さんお手製の美味しい朝ご飯をご馳走になって、しかもまたここに帰ってきてもいいんだという嬉しい状況に足取りは軽かった。
足の打ち身も見た目はひどい青あざになっているものの、湿布のお陰かもう多少触っても痛くないくらいに回復していたし、腕の傷もすっかりかさぶたになって塞がっている。
かさぶたは見た目が悪いけど、バイト先の制服は長袖だから大丈夫。
こんなに何も問題がない日は久しぶりで、晴天の今日の天気同様に心は晴れやかだった。
さらに今日はバイト先に嬉しい訪問者があった。
同じ大学のバスケ部の中河が、わざわざ様子を見に来てくれたんだ。
このファミリーレストラン “フェリシア” は従業員割引とかは無いんで、友達が来ても安くしてあげたりは出来ないんだけどサラダやスープをサービスで付けてあげられるんで、中河は何度か食事に来てくれたことがあったんだよね。
オレの携帯電話にメールを入れても無視だし、電話をかけても出ない。その内に充電が切れたらしく、まったく電話が繋がらなくなったのを心配してくれたらしい。
中河はバスケ部員にしてはちょっと小柄で175cmくらいしかないけど、抜群の反射神経と毎日の練習でレギュラーの座を勝ち取った。そんな中河がなるべくオレが居そうな時間帯を狙って、部活の練習を抜け出して来てくれたんだ。
なんていい奴!
オレはやっぱり中河とは一生友達でいたいとしみじみ思った。
中河が来てくれたのはまだ昼前で店が暇な時間だったお陰で、時間外だったけど休憩を貰えたオレは彼と店の裏へと向かった。
店の裏口の従業員向け駐車場の脇が、休み時間に喫煙する従業員用の喫煙所になっていて灰皿とベンチが置いてあるんだ。
オレも中河も煙草は吸わないけど、中河を店内の休憩所に連れて行くわけにはいかないんでそこで座って話す事にした。
「連絡付かないと思ったら、そんなことになってたのか」
一通りの事情を説明したオレに、中河は呆れたのかびっくりしたのか大きく溜息のような息をついた。
「でもお前さ、バレたらマズくないか? その安積さんって人に、その……お前が男と付き合ってるって……こと」
「マズいだろうね、バレたら」
オレは中河の奢りの缶コーヒーを飲みながら溜息をついた。
中河はオレの属性を――オレが女より男が好きって事を分かった上で友達づきあいを続けてくれてる。
だからこの事態、男が好きなオレがそれを隠してノーマルな男の人の部屋へ転がり込んだってことの問題点について突いてきた。
普通に考えて、男好きの男と一緒の部屋で寝起きなんてしたくないだろうってオレだって分かってる。
でも気付かれなければ、隠し通せば……
卑怯なことだと分かってるけど、気付かれずにこのまま安積さんと一緒に居られたらと、どうしても思ってしまう。
こうしてオレの性嗜好を知った上で泊めてくれるだろう中河と会えた今でも、その気持ちは変わらなかった。
――これは、ヤバいよな。色んな意味で、この気持ちはヤバい。
今までなら、何の見返りもなく泊めてくれそうな人は安積さんしか居なかったからって言い訳が立った。
だけど今は、どうしてすべて分かってくれてる中河じゃなく安積さんの所に居たいのか。
それは……きっと安積さんの作ってくれるご飯が美味しいからだ!
ああ、よかった。ちゃんと理由があるじゃないか。
オレは無理矢理見つけたもっともらしい理由で自分を納得させた。
「オレんちも狭いし散らかってるけど、一週間くらいなら泊めてやるけど?」
「でもお前の所じゃろくな料理食えそうにないし」
「お前な! そんな贅沢言ってる場合か! ……まあ事実だけど」
中河もオレほどじゃないけど料理がヘタで、家ではろくな物を食べてないと言ってたからそこを理由に上げると、ちゃんと冗談で言ってるのを分かってくれた中河もわざとらしく口を尖らせてそっぽを向いた。
「安積さんにはもう一杯世話になってて、今更よそに行くなんて言えないよ。浩二が帰ってくるまで居てもいいって言ってくれてるから、このままお世話になるよ」
「でもなぁ……」
「大丈夫だよ。バレないように気をつけるから。今だって学内でもお前にしかバレてないし」
「ならいいけど。バレたら相手もだけど、お前も嫌な思いをするだろうからホントに気をつけろよ」
「うん。ありがと」
心配そうに眉を寄せて忠告してくれる中河に、オレはなるべく明るく返した。
中河ってば本当にいい奴! オレは中河の気遣いに本気で感謝した。
「だけどもうすぐ学校が始まるのに、それはどうすんだ? 教科書とか」
「さすがにそれまでには浩二も帰ってくるだろうから、それは大丈夫」
浩二は以前、海外出張の期間は大抵一週間前後だと言ってたし、電話の応対に出た会社の人も金曜日の12日には帰ってくると言ってたから、学校が始まる16日には余裕で間に合う。はず。
だけど予定がずれないとは限らない。16日までに帰ってきてくれないとマズいことになるな。
「課題は? 休み明けに発表するレポートとかあるだろ。もう終わらせてあんの?」
「それは一応は済ませてあるんだけど、もうちょっと手直ししたかった部分もあったし……困っちゃうよなぁ」
オレは毎年夏の終わりには大抵バテて何も出来なくなると分かってるんで、夏休みの課題は早めに済ませておくのが幸いした。
でも出来上がってても持って行けなきゃ意味がない! おまけに後から見直そうと思ってた箇所もあるのに直せないかもしれない。
泊まる先が見つかって何も問題ないなんて思ってたけど、先行きは不安だらけだったんだ。
次々と繰り出される中河からの突っ込みに、オレは改めて自分の危うい状況を再確認した。
でも、やっぱり何とかなる気がする。
家を閉め出されたお陰で安積さんと知り合えたし、中河のいい奴っぷりも再確認できた。
こんな悪いことばかり続くどん底状態でだって良いことはあったんだ。それに落ちきった後は上昇あるのみのはず!
休憩時間が終わり中河と明るく別れて仕事に戻ったオレの元に、その楽観的な未来願望予想を裏付けるような出来事がまた起こった。
「宮本君、5番テーブルにご指名だよ」
テーブル席から少し離れたカウンターの中でグラスを磨いていたオレに、フロアチーフの山内さんが声をかけてきた。
「え?」
「また君の知り合いが来てるよ。今日は千客万来だな」
キャバクラじゃあるまいし、この店は指名制なんて無い。
山内さんの親父ギャグにガクッと気が抜けたものの、すぐに身体に緊張が走った。
また誰かがオレに会いに来たって……まさか松坂じゃないだろうな?
でも松坂はオレがファミレスでバイトしてるのは知ってるけど、何処の店かは知らないはず。
だけど他にここまで来てくれる友達になんて心当たりがない。
まさか浩二? だけど浩二はまだ帰国してないだろうし、何より浩二はこんな所に来るタイプじゃない。
「どんな人ですか?」
取りあえず松坂だったら嫌なんで、山内さんに来てるのがどんな感じの人か訊いてみた。
「ごついけど優しそうな人だったな。背広を着てたから大学の先輩じゃないよな」
あ、それは絶対に松坂でも浩二でもない。
オレは安心して入り口近く窓際の5番テーブルに飛んでいった。
「安積さん!」
予想通り、会社帰りにそのまま来てくれたのか、朝出掛ける際に見た濃いめのグレーのスーツを着た安積さんが呼びかけるオレに気付いて軽く手を挙げて微笑んだ。
「そろそろ上がる時間だろ。終わったら一緒に帰ろうと思って迎えに来たんだ」
今日のバイトは5時半までだと朝出掛ける前に言っておいた。だけどまさか迎えに来てくれるなんて。
どちらが先に帰れるか分からないから、安積さんの部屋の鍵はまたあの玄関の外灯の笠の上に置いて出たんでわざわざ迎えに来てくれなくても良かったのに。
申し訳なく思うんだけど、それより嬉しい気持ちが先に立って顔がにやけてしまう。
「あの、すみません。5時半きっかりまで仕事で、そっから着替えて……だから、もうちょっとかかっちゃうんですけど……」
予想外のことがあんまり嬉しくてテンパって思わず口ごもってしまうオレに、安積さんは気にしてないという風ににっこり笑った。
「連絡無しで来た僕が悪いんだから、そんなに気を使わないで。それにコーヒーを頼んでるからそんなに急がれちゃ僕も困るよ。ゆっくり飲ませてよ」
オレに気を使わせまいと、少しおどけた調子で安積さんが言ったちょうどその時にコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしましたー」
5時からのシフトで入ったバイトの高校生ウェイトレスの植木さんが、好奇心丸出しでオレと安積さんを見ながらカップをテーブルに置いた。
「宮本さんのお兄さん?」
植木さんはそのまま立ち去らずにオレに訊ねてきた。本当に女子高生って好奇心旺盛というか遠慮がないと言うか。
「ううん……先輩だよ」
オレは取りあえず無難なごまかしを言ったが、安積さんは否定することもなく軽く彼女に会釈した。
「へーぇ」
ジロジロ見た上に「へー」って、お客さんである安積さんに向かってその態度は無いだろうが。
植木さんのバイトとはいえ接客業にあるまじき態度に一言注意をしようとしたけど、その前に注意されそうな気配を察知したのか、彼女は背を向けて行ってしまった。
去り際に「カーッコイー」と小さく呟いたのが聞こえた。
やっぱり安積さんって女の子に受けるタイプなんだ。
「すみません。まだ高校生の子で言葉遣いが悪くって」
「うちの会社の若い女の子もあんな感じだよ。フレンドリーなつもりで悪気はないんだろう」
彼女の代わりに謝るオレに安積さんがフォローを入れてくれる。相変わらず安積さんってば優しいな。
なんてそんなことをしている内に時刻は5時半を回っていた。
安積さんがコーヒーを飲んでいる間に更衣室で着替えたオレは、普段なら裏口から出るんだけど今日は安積さんと一緒に店を出て、車で来たと言う安積さんと駐車場の方に向かった。
国道沿いにあるせいで、車で来店するお客さんをターゲットにしているこの店の駐車場は広い。
だけど昨日も乗せて貰ったばかりだったから、安積さんの車はすぐに見つけられた。
普段は商店街の月極駐車場に駐めているという紺色の四駆。
オレはカーディーラーの浩二と付き合ってる割りには車には疎い。
だから安積さんのこの車のこともよく知らないけど、もうずいぶん古いタイプらしいのに未だに街でちょくちょく見かける車だから、丈夫で長持ちするタイプの車って感じで安積さんにぴったりな気がする。
「帰る前に一度、君のマンションに寄ってみようよ。もう連絡が付いてるかもしれないじゃない」
車に乗り込むと、安積さんが予想外なことを提案してきた。
「え……でも……」
「また浮気相手が来ないかって心配なんだ。でも携帯電話やお金がないと不便だろう? 必要な荷物だけ持ってまた家にくればいいから。大丈夫だよ」
ああ、あの松坂に襲われたお陰で、家に帰れるようになってもまた安積さんの部屋に転がり込める口実が出来たなんて。
浩二が帰ってくるまでひとりで寂しく過ごさなくてもいいんだ。怪我までした甲斐があったってことかな。
浩二が帰ってきたら別れ話を切り出されて、またひとりになっちゃうかもしれないんだけど……
松坂の元恋人なんかに負けるのは悔しいけど、不思議なくらい怒りは湧いてこなかった。
とにかくまた安積さんの部屋に帰っていいなら行ってみよう。
松坂もさすがにもう諦めて張り込んでたりしないだろうし、もしかしたら浩二もオレと別れるつもりにしても、管理人さんへの連絡くらいは入れてくれてるかもしれない。
「でも、本当にいいんですか? また安積さんの家にお邪魔しちゃって」
もう一度確認するオレに、安積さんは結構真面目な顔で頷いた。
「浮気相手のことが落ち着くまではひとりにはならない方がいいと思うんだ。もちろん君がひとりででも彼女の家へ帰りたいなら無理にとは言わないけど」
「ひとりになるのは嫌です!」
思わず必死になってしまう。ひとりは本当に嫌だ。
「そっか。じゃあ、荷物だけ取りに行こう。まあ、連絡が行ってなきゃ無理なんだろうけど。とにかく行ってみて、それから家へ帰ろう」
ムキになるオレをなだめるように、安積さんはまたオレの頭をくしゃっと撫でてくれた。
そんなわけで、オレは安積さんと一緒にもう一度ダメ元で浩二のマンションに行ってみることにした。