帰宅ラッシュの時間帯に入っていた国道はちょっと渋滞していたものの、距離的には大したことはないから6時過には浩二のマンション『アーバンハイツ光が丘』に着いた。
「いいマンションだね」
「ええ、まあ、そうですよね」
オレが示したマンションを車内から見上げながら言う安積さんに曖昧に頷く。
確かにこのマンションはまだ新しくて綺麗だし、高台にあるからベランダからの景色も良いけど、ここはあくまでも浩二の住んでるマンション。オレはただ居候させてもらってるだけの身だからオレが自慢するものじゃないもんな。
「えっと、どこに駐めようか。来客用の駐車場はあるかな?」
「地下に駐められる場所がありますから、そこのスロープを降りてください」
浩二は車で出掛けていて駐車スペースが空いているから、そこに駐めてもらって安積さんと一緒に正面入り口へと向かう。
地下駐車場から玄関に出る階段を上りきると、周りを見回して松坂の白い外車が駐まっていないか確認する。
まあさすがに待ち伏せまではしていないだろうと思ったけど念のためだ。
「どうかした?」
「あ、別に。ちょっと……」
立ち止まったオレに、横を歩いていた安積さんも立ち止まって不審そうに訊ねてきたけど、すぐにオレの意図に気付いてくれた。
「ああ、そっか。例の浮気相手……居そう?」
「大丈夫みたいです」
「よし。じゃあ行こう」
オレの肩を軽く叩いて促してくれる安積さんの横に、ぴったりくっついて玄関に向かった。
マンションの入り口の暗証番号を打ち込んで中のエントランスに入り、管理人室を覗いてみると中に管理人さんが座っているのが見えたんで声をかけた。
「あのー、すみません」
「んー? ああ、良かった。昨日に支倉さんから連絡があったのにあんたはあれから来ないから、どっかで行き倒れてんじゃないかと思ったよ」
浩二から連絡があったんだ! しかも管理人さん、今度は顔を見ただけでオレのことを思い出してくれた。それに何だかオレのことを心配してくれていたらしい。
「それじゃあ、鍵を開けて貰えるんですね?」
「ああ。支倉さんから宮本って子が来たら開けてやってくれって電話があったよ。宮本――何てったっけ?」
「宮本俊也です」
「そうそう。そんな名前だった」
言いながら脇の扉から出てきてくれた管理人さんは、オレと一緒にいる安積さんを見て何か納得したように頷いた。
「叔父さんちに行ってたのか。そうか、良かった」
おじさんって、安積さんの事? スーツを着てるにしたってそんなに歳には見えないだろ。せいぜいお兄さんだ。いや、オレが子供っぽく見られてるのか?
「じゃあ行くか」
訂正しようとしたけど、管理人さんは合い鍵らしき鍵を手にしてさっさと歩いて行っちゃうし、安積さんの方を見上げると安積さんは悪戯っぽく笑って気にしてないとアピールしてくれたんで、訂正できないまま管理人さんについて行くことにした。
「あの、すみません。安積さん」
「ん、いいよ。しかし今日は君の先輩になったり叔父さんになったりと忙しい日だなあ」
管理人さんの後ろを歩きながら、取りあえず安積さんには叔父さん扱いを謝っておこうとしたら、さっきの店での勝手に先輩扱いの事まで持ち出されてしまった。
「本当にすみません」
「いいんだったら。結構楽しんでるから」
さらに平謝りで頭を下げるオレに、安積さんは楽しそうに笑ってくれた。
3人でエレベーターに乗って4階まで昇り、そこから左側に進んで410号室の前で立ち止まる。
ダークブルーの扉の横にルームナンバーと表札があるんだけど、浩二は表札にオレの名前はもとより自分の名前すら書いていない。
宅配も郵便もエントランスで受け取れるようになっているから不要なんで書いてなかったんだけど、お陰で助かった。
フルネームが書いてあったら安積さんにここが男の部屋だってバレてしまう。さっきも管理人さんの口から、浩二のフルネームを言われやしないかとヒヤッとしたもんな。
「410号、ここだな。支倉浩――」
「はい! そうです」
やばいやばい。無事に乗り切ったと油断していたら、扉を開ける前に確認を取ろうと管理人さんが浩二のフルネームを言おうとしたんで大声で遮って返事をした。
ちょっと不自然かと思ったけど安積さんも管理人さんも気にした風もなく、管理人さんは合い鍵で扉を開けてくれた。
「じゃあ、君の身元を確認出来る物を見せてくれるか。こう言うことは一応きちんとしとかんとな」
扉を開けた管理人さんに身分証明の提示を求められた。
オレが本当に宮本俊也だって証明できる物か。本人が主張しただけじゃ本人と認められないって嫌な世の中だよな。
だけどまあ管理人さんも仕事なんだから仕方ない。
「はい。えーっと、免許証でいいですか?」
「ああ。免許証でも学生証でもいいよ」
どっちも財布に入ってる。その財布を入れた鞄を探しに、オレはひとりで部屋の中に入った。
久しぶりの我が家だったが感慨にふけってる場合じゃない。浩二に投げつけた鞄は……リビングを見回すと、ソファの上に置かれてあった。
よかったー。会いたかったぞマイ鞄! この財布と携帯と鍵の入った鞄が無かったばっかりに散々苦労する羽目になったんだ。思わず鞄を抱きしめてしまう。
でもすぐに正気に戻って、鞄のポケットから財布を出しながら玄関で待っている管理人さんと安積さんの元へ戻った。
「はい、これ。学生証です」
免許証の住所はここじゃなくて実家になってるから、無難に学生証の方を出してみた。ちゃんと写真も貼ってあるからこれでいいよね。
「えーっと、宮本俊也……君。享和大学、人間環境学科っと。何やら難しそうなことを勉強してるんだねぇ。まあ何はともあれ、もう部屋を出るときは鍵を忘れないようにな。ああ、鍵はあったか?」
「えっと……あ、あります。大丈夫です」
管理人さんに言われて、慌てて鞄のいつも鍵を入れている外側のポケットを探って鍵を取り出した。
それを見て管理人さんはうんうん頷くと、自分の役目は終わったとばかりにオレ達に背を向けて戻っていこうとする。
悪い人じゃないんだけど、やっぱり基本的に愛想がない人なんだな。
「あの、お手数をかけてすみませんでした」
「ありがとうございました」
オレと一緒に何故か安積さんまで頭を下げてお礼を言ってくれちゃう。
後ろ姿に向かって礼を言うオレ達に、管理人さんは振り返らずにまたうんうん頷いてエレベーターの中に消えていった。
「じゃあ、ここで待ってるから。忘れ物がないように慌てないで用意してくればいいよ」
管理人さんを見送り部屋へ入ろうとしたんだけど、安積さんは玄関の前で立ち止まって中に入ろうとしなかった。
「そんな。こんな所で立ってないで、上がってお茶でも飲んでください」
「いや、いいよ。さっきコーヒーを飲んだばかりだから。ここは高台にあるから景色がいいね」
それきり安積さんは通路の手すりにもたれ掛かって、夕暮れの街を眺め始めた。
気を使ってくれてるのか部屋の中でボーッと待ってるよりは景色を眺めてる方がマシと思っただけか分からないけど、部屋に入られると本当は都合が悪かったオレとしては正直言ってこの申し出はありがたかった。
安積さんにとってオレは“彼女の部屋”へ転がり込んだはずなのに、この部屋には女性の物は何もないから不自然に思われるのだろうなと思ってたんだ。
これでヘタなごまかしを言わなくてすむ。
とにかくどこで待ってもらうにせよ、あんまり長く待たせるのはよくない。
オレは足早に中に入ると一番手前のオレの部屋として使っていた部屋へ行って、手早く最低限の身の回りの物をかき集める事にした。
まずはさっき見つけた普段使いの鞄の中をもう一度漁って、携帯電話と財布を確認する。
やっぱり何はなくともお金と携帯。
試しに携帯電話の電源を入れてみようとしたけど、やっぱり充電が切れていて画面は真っ黒のままだった。
だけど今は充電している暇はない。携帯と一緒に充電器を鞄に放り込む。
それから財布。これで安積さんから借りたお金が返せる。
さすがに昨日の買い物の付き合いでバイト代は貰えないと言ったんだけど、お金が無いと困るだろうからと結局また一万円を貸して貰っていたんだ。
これで前のお金とテレカを合わせて、安積さんへの借金は一万六千円にもなってしまってる。
他にも食費や宿代に迷惑料なんかも考えると、最低でも三万円は払わなきゃいけないと思うんだけど、安積さんは絶対に現金分の借金一万六千円しか受け取ってくれないだろう。
取りあえず借金分の現金はまず返して、後は何か他の物ででも返すしかないよな。
そう思って財布を見たけど、一万円札が1枚しか入っていなかった。これじゃ返せない。ATMで下ろして来なきゃ。
仕方がないんでお金のことは後回しにして、荷物まとめに戻る事にした。
といっても財布と携帯の他に必要なのって、着替えに休み明けに発表予定のレポートの入ってるノートパソコンにファイル……当座に必要な荷物って意外と少ないな。
ほんの数日過ごすだけなら、たったこれだけで事が足りる。だけどそのたったこれだけが無いことがあんなに大変だったなんて。
何事もなく過ごすことの難しさ、なんてものを考えながらオレは揃えた荷物を大きめのバッグに詰め込んだ。
他に何か必要な物はないかと部屋を見渡す。
ここに来てからまだ2ヶ月足らず。それにオレは別にきれい好きじゃないけどあまり物に執着しない方で、元々荷物は少なかったから部屋の中はすっきりしている。
おまけにオレの部屋といってもここはほとんど荷物を置いているだけの部屋で、普段過ごしていたのは奥のリビング。寝るのは浩二の部屋のベッドでだった。
だけど、あのベッドはもうオレの物じゃない。
やっと戻れた自分の家のはずなのにこんなに寂しい。
もう他に必要な物って思いつかないんで電気を消すと、窓からカーテン越しに差し込む夕日で部屋は赤く染まる。そして、これから真っ暗になっていく。
――扉を開けると聞こえてくる楽しげな笑い声は、付けっぱなしのテレビの音。
広いリビングにはゴミの山。待っても待っても、誰も帰ってこない家。
寂しくて寂しくて、ひとりは嫌だ。
ずっとずっとそう思っていた。
だからここに、浩二の元に来たはずなのに。どうしてまたひとりになっちゃうんだろう。
薄暗い寂しい部屋にひとりでいると、古い嫌な思い出が湧き上がってくる。
オレは頭を振ってそれを振り切ると普段使いの鞄と荷物を詰めたハッグを持って、安積さんの待ってくれてる玄関に向った。
マンションの廊下も安積さんも夕暮れ色に染まっている。
ただ景色を眺めているだけか何か考え事をしているのか。通路の手すりに腕をかけて遠くを見つめながら黙って立っている安積さんの横顔は、優しそうと言うより格好いい。思わず見とれてしまう。
「もう済んだの?」
「あ、はい」
扉が開いたのに気付いてこっちを振り返った安積さんに呼びかけられて、ボーッとしていたオレは現実に戻った。
「荷物はこれだけ?」
「いいですそんな。軽いから自分で持てます」
ナチュラルに、オレの手にした大きいバッグを持ってくれようとする安積さんを慌てて断る。安積さんはやっぱり優しそうと言うより、きっぱり優しい。
「本当にそれだけでいいの? まあ、もういつでも取りに戻れるんだからいいよね。それじゃあ帰ろうか」
安積さんは別に連れて帰る義理もないオレを、当然のように連れて帰ろうとしてくれる。
本当はここがオレの帰る場所のはずなのに。
だけどオレはようやく帰れた我が家のはずのマンションを、何の未練もなく後にした。