今日のバイトは夕方5時から夜の10時半までのシフト。
普段ならこんな日は昼まで惰眠を貪るところだけど色々としたいことがあったし、それに何より安積さんと一緒に朝食を食べたかったんで安積さんより少し遅れてだけど7時に起きた。
オレは朝は弱い質だけど、安積さんが作ってくれる朝食が楽しみだから起きられた。現金なものだ。
昨日の朝食はご飯と味噌汁と焼き鮭という和食だったんだけど、今朝はまたベーコンエッグとパンだったんで前と同じくオープンサンドにして食べる。
こんな風においしい朝ご飯を作ってもらって一緒に食べるのって、すっごい幸せな気分になっちゃうな。
――なんて幸せに浸りながら、オレは浩二とはこんな風にふたりで朝食を食べたことがなかった事を思いだしていた。
朝はお互いの時間が合わないし、浩二はブロックタイプの補助食品で済ませていたしオレもヨーグルトか野菜ジュースだった。お互いに休みの日でも喫茶店でモーニングだったから、まともな朝食をふたりきりで食べた事なんて無かったな。
「オレンジジュースがもう一口残ってるけど飲む?」
「はい、いただきます」
ちょっと考え事をしていると、安積さんが紙パックのオレンジジュースを振りながら訊ねてきた。
もう少しなら飲み切っちゃった方がいいかもと思ってグラスを出したけど、そこになみなみと注がれてしまった。
「ちょっと安積さん! これのどこが一口ですか!」
「一口一口。僕も飲むから」
「ずるいですって。安積さんのは半分じゃないですか!」
安積さんは自分のグラスにもジュースを注いだけど、オレの半分ほどの量だった。
「君の方が若いんだから、飲みなさい」
「安積さんの方が体が大きいでしょう」
「飲まなきゃ君も大きくならないぞ」
そう言って安積さんは笑いながらオレの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
安積さんって人の頭を撫でるのが癖なんだな。はっきり言って頭を撫でられるのは凄く好きだから嬉しいけど。
オレが安積さんみたいに料理が出来たら、浩二ともこんな風に一緒に食事をしながらもっとお互いを分かり合えたのかもしれない。
たわいないけど楽しい一瞬に、またさっきの考え事の続きが湧き上がってくる。
浩二のことにばっかり腹を立てていたけど、オレにも結構悪いところはあったよな。愛して欲しがってばっかりで、浩二のために何かをしてあげた事ってあったっけ?
昨日までと違って、もう浩二の部屋に帰れるようになったのにここに居る事への罪悪感だろうか。今日はやけに浩二のことを考えてしまう。
「あの……そんなに嫌なら残していいよ」
「あ、違います。ちょっと考え事しちゃって。飲みます」
思わず考え込んで動作が止まってしまったオレを、安積さんが心配そうに様子を窺ってくるから慌ててジュースを口に運んだ。
「ところで今日の晩ご飯は何がいい?」
「すみません。今日はバイトが午後からで遅くなるんで、夕食はバイト先で済ませます」
「そっか、バイトも大変だね。おっと、そろそろ片付けないと」
「オレがやっておきますから」
壁の時計を見て慌ててお皿を運ぼうとした安積さんを止めた。居候なんだし、まだ時間はあるし後片付けくらいはしなきゃな。
「それじゃあ、後は任せるね。鍵は預けておくから出掛けるとき締めていつもの場所に置いておいて」
今日は安積さんの方が早く帰ってくるから、オレが鍵を持って行くわけにはいかない。
やっぱりあの不用心な玄関先の、隠し場所とはとても言えないような外灯の笠の上に鍵を置いておくしかないのか。
ほんの数日のことで合い鍵を作るわけにもいかないし他に名案も思いつかず、仕方なく鍵を受け取ると出社する安積さんを見送った。
ひとりになると静けさが身にしみる。
ボーッとしていないですることをしてしまおうと洗い物を済ませ、それから充電した携帯電話のメールチェックをすることにした。
昨日はATMでお金をおろして安積さんに借金を返したり、オレの大学の事を話したりで時間がつぶれちゃって出来なかったもんな。
充電が切れてからのメールも取得すると、結構な数になったが、取りあえず始めの方から見ていくと、学校の友人達からのメールがいくつか来ていて『今何してる?』とか、『駅前に新しくできた店の飯が美味いらしいぞ』だとか当たり障りの無いメールから、だんだん返信をしない事への問いかけや心配するような内容に変わっていってる。
気弱な奴からは『気に障ることをしたなら謝る』なんて、オレが何かに怒って無視してると思ってるらしいメールなんかも来ていた。
オレは普段からそんなにマメにメールをチェックする方じゃないけど、こんなに長い間返信をしなかったことはないもんな。
早く返事を書いて誤解を解かなきゃと思いつつ、まずは全部のメールに目を通そうと読み進めていくと、昨日の内に中河がある程度の友人達にオレが携帯を持たずに部屋を閉め出されてメールが返せない事情を説明してくれたらしく、最後の方のメールは心配から一転『マヌケ』だの『ドジw』だの素敵な罵詈雑言に変わっていた。
まあ心配を掛けた上に事実だし、甘んじて受けよう。
そうやって一通りメールと電話の着信を調べてみたけど、浩二からはメールも電話も無かったみたいで、非通知や知らない番号からの着信はなかった。
普通は無事に部屋に入れたかの確認くらいしてこないか?
管理人さんに連絡を付けてくれたから、もしかして別れる気はないのかもなんて思ったけど、思い過ごしだったのか。
オレも出来ればやり直したいって気持ちが無かったわけじゃないけど、これは望みがなさそうだ。
「やっぱり、もう駄目なのかぁ」
予想していたことでも、こんな風に目に見える形で分かっちゃうと結構来るな。
オレは力なく床に寝そべって目を閉じた。
「……――ん?」
ダラダラと床に寝転がっていたら、寝ちゃったらしい。目を覚ますと時刻はもう1時をまわっていた。
「やっばい!」
バイトにはまだ間があるけど、行きたい所があったのに。
洗面所でもう一度顔を洗って髪を整えると、鍵を外灯の笠のなるべく奥の方に置いて急いで出掛けた。
向かった先は電車で何駅か先の、駅近くにある大手デパート。
ここなら色んな物が揃っているから、プレゼントを探すには最適の場所だ。
安積さんに現金分の借金の一万六千円は何とか受け取ってもらうことが出来たんだけど、それ以上はどう頑張っても受け取ってもらえなかったから、これを口実に安積さんにお世話になったお礼のプレゼントを買おうと思ったんだ。
何を買うかは決めていないけど、とにかく猫グッズか猫関連の物!
それでもって割れ物や消耗品はNGで、長く保って出来れば身につけて貰える物がいいな。
それを条件に1階から順にブラブラと店を見て回ることにした。
とは言え、1階は女性向けの装飾品や靴がメインで2階と3階もレディース専門店ばかりなのでほとんど見る物もなく、4階のメンズを扱うフロアまで何の収穫もなく来てしまった。
ようやくたどり着いた男性向けの商品が並ぶフロアを、足の向くままにあちこち見ながら歩く。
シルバーアクセとかだといつも付けて貰えそうだけど、安積さんはアクセサリー系は何も付けてないし、部屋の中を見渡した限りではそんな物に興味もなさそうだった。
贈れば付けてくれそうだし似合うと思うけど、趣味の押しつけはしたくない。
となると、めちゃくちゃ無難だけどネクタイかな。
色んな柄があるから猫柄のもありそうだし、身につけて貰えるし。
でも毎日同じネクタイはしないよな。でも、何色か色違いで揃えて買えば……
グルグル考えながらウロウロしていると、あるショップのショーケースの中できらりと光る物に視線を引き寄せられた。
「ネクタイピンか」
引き寄せられるままにケースに近付いて中を覗き込むと、いくつかのネクタイピンとカフスが並んでいる。
その中で特にオレの興味を引いたのは、全体はプラチナで出来ているらしいけどつや消しというか表面にぼこぼこした加工がしてあるせいでそんなにギラギラはしてなくて、それで先端部分には小さな石がはめ込まれてあるタイピンだった。
その石はクリームがかった淡い碧に、猫の目のように縦に光の筋が入っている。さっきオレを引き寄せたのはこの石か。
これって確か『猫目石』っていう宝石だったよな。写真じゃなくて本物をじっくり見たのは初めてだけど凄く綺麗だ。
「プレゼントをお探しですか?」
立ち止まってそのままショーケースの中を食い入るようにのぞき込んでいたら、20代後半くらいの物腰の柔らかい店員さんが笑顔で声を掛けてきた。
まあどっから見ても学生かフリーターって感じのTシャツ姿のオレが、こんなネクタイピンを見てれば誰だってプレゼント用だと思うよな。
「ええ、お世話になった方にお礼に何かと思って」
「ネクタイピンをとお考えで?」
「いえ、特に決めてなかったんですけど……これって猫目石ですよね?」
「はい。お詳しいんですね」
店員さんは愛想良く微笑みながら、ショーケースの中からオレが指差した猫目石付きのタイピンを取り出してくれた。
手にとって改めて見ると、石の猫の目のような縦線が光の加減でさらにきらりと光って益々気に入ったけど、いいお値段をしている。
四万八千円はちょっと予算オーバーだ。
親からもらった生活費で十分生活できてるから、バイト代はすべて自由に使えるんで買えない訳じゃないけど、あまり高価なものだと安積さんが気を使っちゃうだろう。
これってば一目瞭然で高そうだから、ちょっと拙いな。
「これはすっごくいいけど、出来れば三万程度で探してるんですよ」
「そうですか。それでは同じブランドでこちらの品などいかがですか?」
素直に予算を打ち明けると、店員さんはすかさず別の商品を勧めにかかってきた。
同じショーケースから店員さんが出してくれたのは、よく似たデザインで宝石の部分がただのメーカーのシンボルみたいなマークに変わっている二万八千円のタイピンだった。
だけどデザインとかブランドじゃなく、さっきのタイピンは猫目石の"猫"の部分に惹かれたのが動機だから、こっちは値段としては悪くないけどあんまり気乗りがしない。
「えっと、猫が好きな人なんで、出来れば猫に関する何かが付いてる方がいいんですよね」
「猫がお好きな方。では猫柄のネクタイをお付けになればいかがです? こちらのアニマルシリーズに猫の物もございますよ」
言う為り先に立って歩き出す店員さんに付いていくと、店の奥の方に展示してあったアニマル柄のネクタイの中から、猫やヒョウがプリントされている物にさっきのタイピンを合わせて見せてくれた。
可愛い柄だし値段は五千円とさっきのピンと合わせるとちょうどいい感じの値段になるけど、どうも可愛すぎて安積さんの好みには合わない気がする。
安積さんは普段ごく普通の、ストライプとかちっちゃなドット模様が入ってるネクタイをしているもんな。
それに好みとかじゃなく、こんなに可愛いネクタイをして行っていいような会社じゃないかもしれない。
――猫傘はOKみたいだけど。
とにかく、ここに来てオレは始めて安積さんがどんな会社に勤めているのかも知らないことに気付いた。
プレゼントはもうちょっと安積さんの好みや、普段の持ち物をリサーチしてからの方がいいかもしれない。
べつに今すぐに買わなきゃいけないわけじゃないし、もう少し考えてみよう。
「可愛いけど……ちょっとイメージに合わないです」
せっかく付き合ってくれた店員さんには悪いけど、勧めを断って店を出ることにした。
だけどやっぱりあの始めに見た猫目石のタイピンには凄く惹かれる物がある。
「こちらの品は月末までお取り置きできますので、よろしければまたお越し下さい」
去り際にもう一度立ち止まってショーケースの中をのぞくと、このタイピンに気持ちが残っているのを見破られて店員さんににっこりと微笑まれてしまった。
「そうですか。じゃあ、考えておきます」
商売上手の店員さんに見送られて、後ろ髪を引かれつつも店を後にした。
その後も暇つぶしをかねて5階、6階とぐるりと一周したけどこれと言ってピンと来る物はなかった。
5階の子供用品店で見た猫のぬいぐるみは、もふもふしていて素敵でちょっと心が揺れたけど身につけられないし、男のオレがぬいぐるみを贈るのもどうかと思って諦めた。
後は催し物会場になってる7階は飛ばし、ちょっとお腹が空いてきたんで8階のレストラン街で軽く蕎麦を食べて、今日のところは何も買わずにバイトに向かった。