確実に昭和の建築だろう、古ぼけたアパート。
窓の外にはベランダと言うほどではないけど、少しだけ洗濯物を干せるスペースがある。
そんな2階の角部屋の淡い緑色のカーテンが、部屋の明かりで白く輝いて見える。
今日も遅番のバイトを終えたオレは、明かりの付いた窓を見上げてついつい顔がほころんでしまう。
誰かが居る部屋に帰れるっていいよな。
ひとり暮らしの頃から明かりの付いていない部屋へ帰るのが嫌で、明かりを付けっぱなしにして出掛けたりしてたけど、虚しいし電気代が勿体ないしで止めてしまった。
明かりの下にはやっぱり誰かが居てくれなくちゃ。
「どう切り出せばいいかなぁ」
もうすでに帰宅しているらしい部屋の主のことを考えながら、所々ペンキがはげた部分にサビが浮いた鉄製の階段を上る。
昨日、今日とバイトの間にも安積さんへのプレゼントは何がいいかと考えてみたけど、しっくり来るものは思いつかなかったんで、安積さんに何か欲しい物が無いか探りを入れてみようと思ったんだ。
安積さんの服装をそれとなくチェックしてみても、動きやすそうなラフな服なら何でもいいみたいでこれといってブランドやメーカーにこだわっている感じはないし、アクセサリーの類を身につける事もないみたい。
部屋の中を見渡してみてもすっきり片付いていて、例の猫棚以外には本棚の上のサッカーボールが学生時代にサッカーをしていた名残を感じさせるくらいで、他に何か趣味があるのかとかは分からなかった。
となるとやっぱり猫関連の物かと思うんだけど、猫グッズは置物にオルゴールにぬいぐるみにガラス細工に――と一通りの物が揃っている感じで他に目新しい物は考えつかなくて、すっかり手詰まりになってしまったんだよね。
何とかさりげなく欲しい物を聞き出す上手い手はないものか。
「ただいま――」
「お帰り」
何も考えつかないままに部屋について、チャイムを押してからそっと扉を開けて中を覗き込むと、いつものように安積さんが笑顔で迎えてくれる。
でも今日の安積さんは上は白いタンクトップだけど下はスーツのズボンという姿で、着替えの途中かお風呂に入ろうとしているところだったらしい。
普段なら安積さんは帰るとすぐにラフな恰好に着替えるのに。安積さんも今帰ったばかりみたいだ。
改めて部屋に入って壁の時計を見ると、もう11時近かった。こんな時間まで仕事だったのかな。
しかし、それにしてもこんな薄着な姿を見ると、安積さんはやっぱりしっかり筋肉が付いてるのが分かる。
グレコスタイルの白いタンクトップからのぞく、がっしりとした肩がすごく格好いい。
思わずじっと凝視してしまって安積さんが、どうかした? と言わんばかりに首をかしげたのを見て、オレは正気に返って取り繕うように質問をした。
「あの、安積さんも今帰ったばかりなんですか?」
「うん。荷物が一つ行方不明になってね。探してたらこんな時間になっちゃって」
「荷物って? お仕事の? ところで安積さんのお仕事って何なんですか?」
これはごく自然に安積さんの事を知るチャンスとばかりに、オレは話しに食いついた。
「ああ、話してなかったっけ? 僕は運輸業―― 運送屋に務めてるんだ」
「へー。なんて運送屋さんですか?」
「カマキリマークの鎌田運送って知ってる?」
「ああ、知ってます!」
オレの地元では見たことなかったけど、こっちに出てきてから知った。この辺りではメジャーな運送屋らしく、荷台にでっかい目をしたカマキリのコミカルなイラストが描かれたトラックをよく見かける。
そうか、安積さんってあのトラックに乗ってるのか。
確か緑と白のストライプのシャツに緑の帽子の制服だったよな。あれを着て爽やかな笑顔で荷物を届ける安積さんっていうのはすごくしっくり来る。
「どうかした?」
「あ、別に。それで荷物は見つかったんですか?」
思わず制服姿の安積さんを想像しちゃってにやけてしまったオレは、安積さんに不審がられそうになって慌てて話を続けた。
「うん。ちょうど僕がリフトした荷物だったんで焦っちゃったよ。でも何とか今日の最終便に間に合う時刻に探し出せたから良かったよ」
「リフトって?」
「ああ、フォークリフトの事。僕がフォークリフトで運んだ荷物が消えちゃってね」
フォークリフトってあの倉庫とかで荷物を運ぶのに使うあれ? あれって普通の自動車の免許では運転できないんだよな?
「すごい! 安積さんってそんなのも乗れるんですか!」
「別にフォークリフトの免許なんてそんなにすごいものじゃないよ。僕みたいに大型特殊の免許を持ってれば2日で取れるし、車の免許を持って無くても5日間の講習で取れるんだから、簡単だよ」
「大型特殊の免許もですか」
簡単って、大型特殊の免許まで持ってるなんて。それもすごいと思うんだけど。そういう特殊車両の運転が出来るって格好いいな。
そんな大型車なんて運転して荷物を運んだりしてるなんて、安積さんのこの筋肉は伊達じゃないんだ。
「あ。で、荷物はどこに有ったんですか?」
「その荷物がうちの会社で納入してる備品が入ってるのと同じダンボールを利用してあったもんだから、倉庫に来た事務の子が会社の備品と間違えて事務室に持って行っちゃってたんだ。倉庫中探し回っても無いはずだよ」
安積さんはその時のことを思い出したのか、苦笑いを浮かべた。
確かに分かってみれば笑い話だが、探していたときはシャレにならない状態だったんだろう。
「でも見つかってよかったですね」
「うん。見つからなきゃ帰れないところだったよ。滅多にないけど、その日の入庫と出庫の伝票が合わないと合うまで居残りだから」
「厳しいんですね」
「大事な荷物を預る仕事なんで、信用が一番大切だからね」
信用第一の誠実なお仕事なんて、安積さんに似合いすぎる。
あのカマキリマークのトラックに、白と緑のシャツも似合ってるだろうな。
でもあの制服に着替えちゃうんじゃ、会社ではネクタイピンは付けててもらえないじゃないか。最近流行ってる襟に付けるラペルピンなんかでもいいかと思ったんだけど、それも駄目だし。
仕事を聞いたら、ますます何を贈ったらいいのか分かんなくなっちゃったぞ。
「あの、先にお風呂に入っていいかな?」
「どうぞ。引き留めちゃってすみませんでした」
そうだ、安積さんはお風呂に入ろうとしてたんだよな。
もう夜も遅いし、話しに一区切り付いたところで安積さんはオレに断りを入れると、脱衣所に入っていった。
「あーあ、どうすっかなぁ」
ひとり部屋に残されたオレは、振り出しに戻ったプレゼント選びに頭を抱えるようにテーブルに肘をついて考え込んだ。
明日にはもう浩二が帰って来ちゃうっていうのに。
でも浩二は本当に明日帰ってくるのかな? まだ同棲を始める前にも海外に出張に出掛けたことがあったけど、その時は現地のパソコンからでもメールをくれたのに今回は何もないもんな。
単に浩二は釣った魚に餌はやらないってタイプなだけかもしれないけど、オレが寂しがり屋な事を知ってるくせにひどいじゃないか。飢え死にしちゃうぞ。
もう一度携帯を取りだして眺めてみても、やっぱり新しい着信は無し。
そのまま何となく中身のない友達からの雑談メールをさかのぼって読み返していると、お風呂から上がった安積さんが濡れた髪をタオルで拭きながらパジャマ姿で部屋へと戻ってきた。
「明日、帰ってくるんだっけ? 彼女」
考えてる事が顔に出ちゃってたのか、安積さんがまさにずばりの質問をしてきた。
「あ…… はい」
「まだ何も連絡がないの?」
「ええ。でも、予定がずれ込んだのかもしれないですし……」
「そうだね。ま、その内帰って来るさ。君もお風呂に入ってきたら?」
安積さんはどうしても暗い気分になっちゃうオレの頭をポンポンと軽く叩いて、お風呂を勧めてくれた。
明日のことは明日考える!
安積さんへのプレゼントは、別に浩二が帰ってくるまでに買わなきゃいけないってわけでもないんだし、もう少しゆっくり考えよう。
安積さんに頭をポンポンされたお陰でちょっと気分が浮上したオレは、結局何も決められないまま風呂に入って寝ちゃうことにした。
そんな自堕落で寝ちゃって迎えた翌朝。オレが目を覚ますと、安積さんはもう出社しちゃったみたいで部屋には居なかった。
外は曇っているらしくカーテンの向こうはまだ薄暗い感じだったけど、車やバイクの走る音や隣近所からの生活音が朝を告げていた。
起き上がってテーブルを見ると、卵焼きの乗ったお皿とお茶碗とお椀が伏せてある。
今日はバイトは休みだって言っておいたから、安積さんはオレを起こさないようにして会社に行っちゃったのか。
自堕落しすぎて気が抜けて、オレは昨日の夜は携帯の目覚ましをかけ忘れて寝ちゃったらしい。
そう思って鞄の上に置きっぱなしにしていた携帯を見ると、着信ランプが点滅していた。
夜の間はマナーモードにしてたから、メールが来たのに気付かなかったんだ。
これ、この着信ランプの色は浩二の携帯からのメールじゃないか!
慌てて携帯を開いて、焦って違うボタンを押しそうになりながら開いたメールを読んでオレはそのまま固まってしまった。
『今日はこっちのホテルに泊まって明日帰る』
「これだけ?」
そんなバカなという想いでスクロールボタンを押してみても画面は動かない。これ以上の文章はないんだ。
浩二からのメールはいつも必要最低限の事しか書いてない。とは言えこんな時までこんなメールって!
あまりのマイペースぶりにムカついて、携帯を床に投げつけたい衝動に駆られたけどぐっと堪えた。携帯電話のない生活の大変さが身にしみたばかりだったから。
そうじゃなかったら絶対やってた。
大体こっちってどこだよ。携帯からのメールだから日本には帰ってきてるんだよな? って事は空港の近くか?
「って、あー、もう知るか!」
「何?」
携帯を叩きつける代わりに叫んだオレの声に答えるように、安積さんがシャツの袖のボタンをはめながら脱衣所からひっこり顔を出した。
「あ、彼女からメールが来たの?」
「あっ! 安積さん! ……あー、はい」
安積さんってば脱衣所で身支度をしていただけで、まだ居たんだ。携帯を握りしめて床に座り込んでいるオレを見て状況を察してくれたらしい。
「そっかー、よかったね。何時頃帰ってくるの?」
「それが、その……帰るのは明日になるって……」
「それで怒ってたの」
オレの雄叫びは当然ながら聞こえてたんだ。汚い言葉を使わなくてよかった。
安積さんの前では猫を被って良い子でいたいもんな。安積さん猫好きだし―― って、それは関係ないか。
ともかく、くすくす笑いながら脱衣所から出てくる安積さんの笑顔に、さっきまでのムカムカした怒りがすうっと消えていくような気がした。
この人の笑顔は気が抜けるというか和むというか。
「じゃあ、今晩はまだうちに泊まれるんだ。晩ご飯は宮本君の好きな物を作ってあげるから、機嫌直して。何が食べたい? あ、と言ってもあんまり手の込んだ料理は出来ないけど」
「え? そんな。そんな、気を使わないでください」
安積さんってば何でそんなに優しいんだよ。浩二もこの半分でも優しかったら、オレもこんな想いをしなくてすんだだろうに。
何だか怒りというより情けない気持ちがこみ上げて来て、何も言えなくなってしまったオレの前に、安積さんは腰を下ろして覗き込むようにオレの顔を見た。
「好きだから一緒に暮らし始めたんだろ? まあ……少々問題のある彼女だと思うし、君が怒る気持ちも分かるけどけど……このまま別れちゃって、それでいいの? 別れるにしてもちゃんと話し合いをしてからでいいんじゃないかな。……なんて、僕が言えた義理じゃないんだけど」
安積さんはそう言いうと、ちょっとばつが悪そうに頭をかいた。
そうだ。安積さんも彼女と連絡が取れなくなって、フェードアウトで別れたんだよな。それを思い出して顔を上げたオレに、安積さんは穏やかに話を続ける。
「でも、自分がこんなだったから、宮本君には同じような後悔はして欲しくないんだ」
てことは、後悔してるんだ。彼女と別れたことを。今でもやっぱり彼女のことを好きなのかな――
視界の端に映る、未だに捨てられずに置いてある彼女の化粧品が何だか切ない。
「あの、その……ごめんね。また余計な口出しを……その、お節介しちゃって……」
勝手に切なくなって黙り込んでしまったオレに、安積さんがまた申し訳なさそうな顔をして謝ってくる。
この人はどこまで人がいいんだ。
「いえ。安積さんはお節介なんかじゃないです! あ、そうだ、オレじゃがセロウィンナーが食べたいです! あれ、すっごく美味しかったから、あれ食べたら元気が出そうです!」
自己嫌悪を起こしちゃってる安積さんを救うべく、オレは明るく振る舞うことにして料理のリクエストをした。
「そんなのでいいの?」
「そんなのって、あれすっごく美味しかったですよ。それにあれはよそじゃ食べられないですし」
「それもそうか。おっと、そろそろ行かなきゃ。じゃ、今日は早く帰れるように頑張るから! 他に食べたいメニューは思いついたらメールして」
安積さんは腕時計を見て時間が無いのに気付いたらしく、慌ただしく立ち上がった。
「そんな。慌てないでくださいね。オレの晩ご飯なんて、そんなの気にしてくれなくていいですから!」
荷物を無くすくらいならいいけど―― いや、それも駄目か。でも慌てて安積さんが配達中に事故でも起こしたら大変だ。
心配するオレに笑顔で答えて、安積さんは鞄とスーツの上着を片手に会社へと出掛けていった。