あなたの胸で眠らせて −18−

 ふわっと上がってくる湯気の向こう、ニンジンやジャガイモが鍋の中でコトコトと踊っている。
 テレビの料理番組とかで見る光景が目の前にあるって、ちょっと感動。
「本当にこんな物でよかったの?」
 キッチンに立つ安積さんの横でうっとりと鍋の中を覗き込んでいるオレに、安積さんが困惑気味に訊ねてくる。
「こんな物って事はないでしょう? 食べたかったんですよねー」
 オレが安積さんにメールでリクエストした料理は、クリームシチューだった。
 安積さんはオレが遠慮して難しい料理は避けたと思っているみたいだけど、オレは本当にクリームシチューが食べたかったんだ。
「ビーフシチューなら結構置いているレストランはありますけど、クリームシチューっていうのはなかなか無いですから」
「まあそれもそうだけどね」
 そう言いながらも安積さんは何だか納得できない顔をしている。でも、気にしない。
 料理が得意な安積さんにとっては簡単なメニューなのかもしれないけど、料理がからきしできないオレにとっては滅多にありつけないご馳走なんだよね。
 クリームシチューなんて、高校時代に寮で食べたっきりだ。
 いや、正確に言えばインスタントのカップスープみたいなのなら何度か食べたけど、量が少なかったり具があんまり入ってなかったりで全然物足りなくて、食べた気がしなかった。
 具がいっぱい入ってる、CMやパッケージの写真みたいなこんなシチューを一度でいいからお腹いっぱい食べてみたかったんだ。
「はい、ちょっとごめんね」
 安積さんはシチューの鍋を覗き込んでいるオレの横から手を伸ばし、鍋の中をおたまでぐるりとかき回して様子を見ると、火を止めて蓋をした。
「もうそろそろいいかな。この鍋は一端テーブルにのけておいてくれる? 熱いから気をつけて。そこの鍋つかみを使って」
「はーい」
 オレは安積さんの注意に従って、火傷しないように怖々と白地にミケやトラ縞の猫のイラスト付きの鍋つかみをはめて鍋を持ち上げ、テーブルに置かれたこれまた細身の猫のシルエットが印刷されたコルク製の鍋敷きの上に移動させた。
 安積さんはその間に、空いたコンロに今度はフライパンをかける。
 次に隣のコンロにかけてあった天ぷら鍋の中に下味を付けた鶏肉を放り込むと、作業台の方に移って慣れた手つきでざくざくとセロリを刻み始めた。
 今度はじゃがセロウィンナーの準備に掛かるらしい。
 テキパキと効率よく料理を仕上げていく安積さんに、オレは本気で感心していた。
 料理ができる人ってすごい。オレには絶対こんなマネはできない。
 ――でも、何とかやってみたい。

 オレはキッチンでお皿を出したり使い終わったボールを片付けたりと簡単な作業を手伝いながら、安積さんの料理の仕方を盗み見ていた。
 料理を教えて欲しいなんて恥ずかしくって言い出しにくいんで、手順を見て覚えようと思ったんだ。
 だって彼女――本当は彼だけど、の為に料理を覚えたがってるなんて恰好が悪いじゃないか。
 それにこのタイミングじゃあ、料理でご機嫌を取って仲直りをしようとしてるみたいだし。
 でもまあ実際そうとも言えるか。浩二に食べさせたいって思ってるんだもんな。
 浩二が帰ってきたら手料理で迎えて上げて、今度のことも今後のこともよく話し合って、オレなりにできることは全部やってみて、それでも駄目だったら諦めも付く。
 松坂の恋人なんかと浮気して、オレのこと部屋から閉め出した挙げ句に放ったらかしにして……浩二がオレにしたことは酷いけど、安積さんの言うように何も話し合わずに終わらせちゃ悔いが残るかもしれない。
 それに、オレのことを心配してくれた安積さんに応えるためにも、できる限りのことをしてみたかったんだ。

 だけど本当の所は、ちょっと料理をしてみたくなったって言うのが一番の理由だったりする。
 何か一品でも作れる料理があるっていいじゃないか。
 じゃがセロウィンナーは簡単そうで美味しいし、初心者のオレにはぴったりだと思ったんだよね。
 オレは料理どころか、ご飯すらほとんど炊いたことがない超初心者。
 小学生時代は火を使うな、ガスコンロにも触るなと言われていたから、出来合のお弁当やパンを買ったり、カップラーメンですらコンビニでお湯を入れてもらって食べていた。
 でもコンロを使うのを禁止されていなかったとしても、安積さんと違って自分で料理を作ろうなんて面倒なことは思わなかっただろうな。
 その後も中学、高校と寮生活だったから料理をする機会もなく、しようという気もなかった。
 大学生になって賄いのないアパートで1人暮らしをすることになって、始めて自炊しようとそれなりに道具なんかを揃えてはみたけど、料理の作り方が分からないから結局ほとんど使わなかった。
 そんなオレだけど、じゃがセロウィンナーの作り方は簡単だって安積さんは言ってたし、食材も三品だけだから調理方法は見ていれば分かるだろう。
 そう思ってオレは安積さんの後ろから邪魔にならないように、その手際のよい作業を眺めていた。

 安積さんの邪魔にならないように後ろから覗き込んでいるオレの前で、まずは油が引かれたフライパンの中に斜めに切られたウィンナーが投入される。
 それに火が通るまでに安積さんは天ぷら鍋の方へと移ると、ステンレスの中に網が入ってる四角いボールの中に唐揚げをすくい上げた。
 鶏の唐揚げの完成だ。
 この一度に2つの料理をこなすっていうのがすごいよね。
 感心しながら見ているオレの前で、安積さんはまたもとのフライパンの方のコンロを向いてパチパチと音を立て始めたウィンナーの上に、すでにレンジで加熱されて出番を待っていたジャガイモを放り込んだ。
 するとジャガイモの水気がジュワッと水蒸気になって立ち上って、ちょっと怖い。
 だけど安積さんはまったく気にしてない様子で、湯気が収まるとその中にマヨネーズをくるりと回し入れ、刻んだセロリも入れてフライパンを軽く揺すりながらかき回した。
 マヨネーズの分量がよく分からなかったけど、安積さんも適当に入れてるみたいだから、そんなに厳密じゃなくていいんだよな?
「そこの棚の2段目のお皿を出してくれる? 黒くてちょっと深めになってるやつ」
「あ、はい」
 じっと安積さんの手元を見ながら考え込んでいたオレは、突然振り返った安積さんに声をかけられて、慌てて流しの横の食器棚から黒い深皿を取りに行った。
 その間にじゃがセロウィンナーは最後の仕上げに入ったらしい。安積さんは胡椒をミルで挽いて軽く混ぜ合わせると、コンロの火を止めた。
 胡椒の前にも何か入れたような気がしたんだけど……塩かな? 塩胡椒で味を調え――ってテレビに出てるシェフとかがよく言ってるから、胡椒の前には塩を入れるんだろう。多分。
 最後の方がちょっと頼りないけど、とにかく覚えたぞ!


 頭の中で覚えた作り方のおさらいをしながら、オレはお皿に盛りつけたじゃがセロウィンナーや鶏の唐揚げをテーブルに運び、安積さんはさっきのクリームシチューをもう一度火にかけて温め直しながら、仕上げに別茹でしてあったブロッコリーを入れている。
 それでぐっと彩りがよくなって、ますます憧れの理想のクリームシチューになった。
 さらに先に作ってあったニンジンとセロリ入りのコールスローも小鉢に盛られ、豪華な晩餐が出来上がった。
 じゃがセロウィンナーとクリームシチューはオレのリクエストで、唐揚げとコールスローは安積さんの提案だけど、それもオレの大好物!
 まさに夢のような食卓。

 ――小学生の頃は、食事と言えば親からお金をもらって好きな物を好きなだけ食べられる環境だった。
 だけど、その頃のオレは今よりずっと食が細くて食べることにあまり感心がなくて、まったく食べなかったりスナック菓子やアイスクリームだけで済ませたりしていて、まともな食事といえる物は昼食の学校給食だけ。よく死ななかったもんだ。
 三食まともな物を食べるようになったのは、中学で寮に入ってから。
 それでガリガリで骨と皮だけみたいだったオレも、それなりにまともな体型になったんだよな。
 それで毎日風呂に入って洗濯した服を着て。まあ、まともに普通の体格と恰好になっただけなんだけど、それでオレはすごくモテるようになった。
 それまで「汚い」「臭い」「気持ち悪い」と周りから嫌われて避けられていたのが嘘みたいに。

「どうかした?」
「あ、いえ。すっごい美味しそうだなって、ちょっと感動しちゃってました」
 理想の食卓を前に思わず感慨にふけっちゃったオレは、安積さんの声に我に返る。
 何も美味しそうなご飯を前に嫌なことを思い出すこともない。オレは明るく取り繕ってテーブルに着いた。


「本当に何から何まで、お世話になりました。って事で、お礼と言ってはなんですが……」
 安積さんもテーブルに着くと、オレは用意していた青いリボンの付いた小さな箱を、安積さんの前に差し出した。
「え? 何?」
「今までお世話になったお礼です」
「ええ? そんな。世話って言っても寝床を提供した程度で……そんな」
「いらないなら捨ててください」
 予想通り遠慮する安積さんの手にプレゼントの箱をぐいっと押しつける。
「そんな! あの、いらないとかじゃなくてね。そんなお礼をしてもらうようなことはしてないのに」
「開けてみてくださいよ。それで気に入らなかったら返品しに行きますから」
「いやあの、だからね……」
「早く開けて、ご飯にしましょう。オレお腹空いてるんです」
「あ、あ……じゃあ、開けるね」
 ごり押しするオレに押し切られて、安積さんはプレゼントのリボンをほどいて丁寧に包みをほどくと、中に入っていたビロードのような生地の小箱を取り出し、その蓋をそっと開けた。
「わぁ、綺麗だねえ。でも……すごく高そうだね」
「綺麗でしょう? その石、猫目石って言うんですよ」
 何とも複雑な顔で値段を気にする安積さんの言葉は無視して話を続ける。
 オレが選んだプレゼントは、やっぱりあの猫目石の付いたネクタイピンだった。
 何度考えてもこれ以上にぴったり来る物が思いつかなかったから。
 今日の午前中にデパートに買いに行ったら売り場にあの日の店員さんが居て、オレの顔を見るなり待ってましたと言わんばかりに満面の笑みで迎えてくれた。

「え? 猫目石? へぇ、これが猫目石かあ。本物は始めて見たな」
 遠慮がちだった安積さんも、“猫”の一言につられて箱からネクタイピンを取り出し、しげしげと眺め始めた。
「ああ、本当に猫の目みたいだね」
 石の中で光を受けてきらりと光る一本のラインはまさに昼間の猫の目。安積さんは感心した様子で何度も角度を変えて石に光を当てている。
 これは、この表情は気に入ってくれてそう。思わずニンマリしてしまう。
「気に入ってもらえました?」
「いや、あのね、本当に綺麗だけど――」
「ね? 綺麗でしょう。絶対気に入ってくれると思ったんですよ! よかったー」
「うん。気に入ったよ。ありがとう」
 まだ値段のことが気になっているらしい安積さんを強引に押し切ると、押されまくって安積さんもようやく観念したのか、ちょっと困ったような苦笑いを浮かべながらもお礼を言って受け取ってくれた。
「でもこんなの普段には付けられないよね。結婚式とかそんな時に付けるものだよね? 誰か結婚してくれないかなあ」
 それは誰か友達が結婚して結婚式に招待してくれないかなって意味か、それとも自分が結婚したいって事なのか……どっちなんだろう。
 どちらにせよ気に入ってくれたことは確かなんだけど、ちょっと複雑。
「よし、じゃあご飯にしようか」
「はい。いただきまーす」
 ネクタイピンをまた丁寧に箱にしまい込んだ安積さんに促され、オレも手を合わせていただきますをすると、スプーンを握った。


 やっぱりまずはクリームシチューだよね。
 オレは冷めた上澄みをすくうようにそっとスプーンを滑らし、さらに軽く吹いてから口に運んだ。
「んーっ、美味しい!」
 コーンスープやカボチャスープなんかよりこってりとした舌触りに、野菜の甘みって言うんだろうか? そんな優しいほのかな甘みを感じる。
 今度はスプーンを中まで突っ込んでニンジンもすくい上げ、ふーふー冷ましてからスプーンにかぶりつくように口に入れた。
 熱いんだけど、だけど美味い! ニンジンの熱さに顔をしかめちゃうけど止められない。
 オレはまたすぐにシチューをすくう。
 そんなオレの様子がおかしかったのか、安積さんがくすくす笑った。
 シチューに覆い被さるようにして夢中で食べていたオレはその笑い声に気付いて、猫舌の食べ方がそんなに面白いですかとばかりに上目遣いにジトッと安積さんを睨んだ。
「ごめん、ごめん。あんまり必死に食べてるから」
 安積さんは笑ったことを謝りながらも、まだ笑っている。だけど別に腹は立たない。
 楽しそうな安積さんも見てると、俺も楽しくなる。
「でも宮本君は何でも本当に美味しそうに食べるから、作り甲斐があるよ」
「だって、ホントに美味しいですから!」
 安積さんの作ってくれる料理って、本当にどれも美味しい。
 料理の出来がいいって言うのもあるんだろうけど、雰囲気とか美味しく食べられるようにって気をつけてくれているせいもあるんだろうな。
 安積さんとはほんの数日一緒に過ごしただけだけど、安積さんから学ぶべき所は多かったな。
 この経験を生かせば、浩二との仲直りくらいチョロいんじゃないだろうか。
 持ち前の楽観主義が湧いて出る。
「シチューのおかわりをしていいよ。残ったら明日の朝にも食べればいい」
「え? ホントですか?」
 あの鍋一杯のシチューがオレの物? しかも朝から食べていいの?
 ちょっと憂鬱だった明日という日が、何だか楽しみになってきた。これも全部安積さんのお陰。
 じゃがセロウィンナーの作り方も覚えたし。
 明日は安積さんに、お陰で仲直りできましたって言えるようにがんばろう。
 オレは自分に気合いを入れながら、またシチューを食べ始めた。

(up: 28.Sep.2008)

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