あなたの胸で眠らせて −20−

「買い換えっるて、あれを?」
 驚くオレとは裏腹に、浩二はいたって普通になんてこと無いという風に微笑んだ。

 あのベッドはオレがこのマンションに来たときにはもう有ったからいつ買ったのか知らないけど、まだそんなに古くないはず。
 マホガニーのベッドボードはシンプルだけど重厚で、スプリングが効いたマットレスは寝心地最高。
 そのあまりの寝心地の良さに、どんなメーカーのベッドなんだか気になってネットで調べてみて、その値段に驚くと共に寝心地の良さに納得した。
 通常のタイプで七十万円。それだけでびっくりなのに、浩二のみたいにダブルマットレスのタイプにアップグレードすると百万円近くするみたいだった。
 それをあっさり買い換えるって?
 それに値段より何より、オレにとっては浩二と始めて夜を過ごした思い出のベッドなのに、それをそんなあっさり捨てちゃうのか?
「俊也があのベッドが嫌になったんなら仕方ないじゃないか。それで俊也の機嫌が直るなら、安いものだよ」
 あまりのことにただ困惑して言葉に詰まっているオレを見つめながら、浩二が笑みを消した真面目な顔で言ってきた。
 オレの為なら何十万もする物でも捨てていいって意味か。
 それだけオレのことが大切って事? それは嬉しいけど、だけどオレにとってあれはただの"物"じゃないんだ。
 オレは単にあのベッドのことが気に入ってたから独り占めにしたくて、他の男を連れ込んで欲しくなかったんじゃない。
 あの寝室を、ベッドの上をオレと浩二のふたりだけの特別な場所にして欲しかったんだ。
 浩二がいないときでも、浩二の匂いを、気配を感じながら眠れる。独りの時もひとりじゃないって思える、だけど他人は入ってこない。
 そんな本当に安心してくつろげる大切な場所。
 子供の頃からずっと、そんな場所が欲しかった。
 誰も帰ってこない広い家で、ひとりきりで眠っていたあの頃からずっと。


「駄目! あのベッドは捨てちゃ駄目!」
「それなら、どうすれば機嫌を直してくれるのか教えてくれ。俊也のためなら何も惜しくはないよ。何なら引っ越したっていい。何かもかも新しくして、やり直そう」
 噛み付かんばかりの勢いで反対するオレに、浩二は優しくオレの頬に触れながら駄々っ子をなだめるように優しく言った。
 ご機嫌取りの見え見えの手だけど、こんな風に見つめられながら言われたらグラッと来るな。
 だけどそう簡単には許してやらない。
 オレがこの数日間どれだけ苦労したのか分かってくれなきゃ。
「人のことずっと放ったらかしにしておいて、今更そんなこと言われても信用できないよ」
「仕事だったんだから仕方がないだろう?」
「だからってオレがどこに……どこか、変な奴のところに行きやしないかって心配じゃなかったのか?」
「それは俊也のことを信じてたからさ」
「信じるとか信じないの問題じゃないよ。無一文でどうやって生活してたのかってこと!」
 またも嬉しいことを言ってくれるけど、いくら信じられても飲まず食わずでは生きていけない。それでもって世の中、見知らぬ奴に見返り無しで衣食住を提供してくれるほど親切な人間はそうそう居ない。
 安積さんと出会えたのは本当にラッキーだった。安積さんに会えてなかったら、オレは松坂の所に行ってたかもしれない。そうなったら当然――
 なのに浩二はのんきなことを言ってくる。
「そりゃあどこか友達のところで世話になってたんだろう?」
「今、大学は夏休み。学校の近所に住んでる奴らはほとんど帰省してるよ」
「大学が休みでも、友達とは電話で連絡が取れるだろ」
「携帯なくてどうやって?」
「え? 携帯も?」
 オレの言葉に、浩二は素で驚いた顔をした。
 もしかして財布だけじゃなく、携帯電話も鞄に入れてたって知らなかった?
「携帯はポケットに入れてたんじゃないのか?」
「オレは携帯はいつも鞄に入れてただろ」
 オレは一度、携帯電話をズボンのポケットからトイレにダイブさせて駄目にしてしまってから、ポケットには絶対に入れなくなった。けど浩二は自分はポケットに入れてるから、オレもそうだろうと思いこんでたのか。

「そうだったのか」
 驚いた顔で呟くように言う浩二の様子からして、本当にオレが携帯電話も持っていなかった事を知らなかったみたいだ。
 だけどそれならそれで、いつまでもオレから電話がない事を不思議だと思わなかったんだろうか。
 オレは浩二と連絡が取れない間、浩二が事故にでも遭ったんじゃないかなんて心配してたのに。
「何でオレが電話をしてこないんだろうとか、思わなかったわけ? 何で電話をして居場所を確認しようとしてくれなかったんだよ!」
「便りがないのが無事の知らせかと思って」
「電話はしたよ! 知らない番号からの着信があっただろ? 留守電も入れたのに」
「知らない番号からの電話になんて出るわけ無いだろ。オレが留守録を聞かないのもいつものこと。俊也は知ってるだろ?」
 知ってるけど、知ってるけど!
「時と場合を考えろ!」
 胸を張って堂々と言うな。怒って出て行った恋人と連絡が取れなくなったら、もう少し心配して配慮しろよ。


 浩二はマイペースというか、自分の決めたマイルールに妙に忠実なところがある。
 本人は自分を「信念の人」だなんて言ってるけど、マイルールで突き進まれちゃ付いていく方は大変だ。
「仕事で携帯電話には散々呼び出されて辟易してるんだ。プライベートくらい携帯から離れさせてくれ。こんな物、出来れば持ちたくないくらいだ」
 それを言われるとちょっと浩二が気の毒になってしまう。
 仕事の関係で、ちょっと車体を擦っただけとか些細なことで夜中でも時間を構わず電話をかけてくる顧客の相手をさせられているのを知ってるから。
「俊也のことだから大丈夫だと思ったんだよ。大学の友達のところに行ってると思ってた。あのバスケ部の、中河君だっけ? 訳知りの彼のところだとばかり…… それで、結局どこにいたんだ?」
「知らない人のところ」
「俺が知らない奴? バイト先の人か?」
「ううん。オレも全然知らない人。その日始めて会った人のところに泊めて貰ったんだ」
「それは、つまり……」
 予想外のオレの答えに、浩二は眉をひそめた。
 オレがナンパしてきた男に付いていったと思ったみたいだけど、まあここはそう思われても仕方ない。
 だからオレは怒らずに穏やかに話を進めた。
「違うよ。彼女持ちで、って言っても最近振られたって言ってたけど。とにかく普通に女の人が好きな、普通のサラリーマンの人。雨に降られて困ってるオレのことを心配して家に入れてくれて……すごくいい人だった」
「何もなかったんだな」
 安積さんのことを思い出すだけでほんわかした気分になれる。穏やかに話すオレに、浩二も安心したようで微笑んだ。
「当たり前。だけどここを追い出されたオレが、言いよってくる他の男のところに行くかもとか考えなかったのかよ」
「俊也はそんな事しない」
 真っ直ぐにオレを見つめながら言い切る浩二の笑顔に、ぐっと言葉に詰まる。
 見慣れた顔だけど、やっぱり浩二は格好いい。だけど今はそれに見とれてる場合じゃない。
「でも、だけど、オレ、松坂に襲われたんだぞ!」
「でも、逃げたんだろ?」
 やけにきっぱりと言い切る浩二の言葉がちょっと引っかかったけど、オレが松坂ごときにどうこうされるタマじゃないって分かってるからだろうか。
 だけど、あの時は本当にヤバかったんだからな。あの時のことを思い出したらほんわか気分は一気に消えて、今度は腹が立ってきた。
「逃げたさ! 逃げて、それで怪我したんだから!」
「怪我? どこを?」
 それまで余裕で受け流していた浩二が、驚いた表情でオレの方に手を伸ばす。
 心配してくれるんだと、ちょっとだけ気分がよくなるけど、不機嫌な顔は崩さない。
「ここ! それから膝も! すっごく痛かったんだからな」
「もう跡もほとんど残って無いじゃないか」
 オレが前に怪我した右腕の上の方を指差すと、浩二はオレの腕を取ってその部分を眺め、大げさだと言わんばかりに笑いながら言った。
 確かに腕の傷はもうかさぶたも取れて、その名残が所々に小さくピンク色のまだら模様になってる程度だった。
 だけどそれは安積さんのお陰だ。
「安積さんが手当てしてくれたんだ。傷が残らないようにって、すっごく丁寧に」
「安積? その人がお前を拾ってくれた人か?」
「そうだよ。安積さんが手当てしてくれたから…… 安積さんはすごく優しくて、料理も上手くってさ。そうだ! オレ料理覚えたんだ。浩二に作ってやるよ」
 いきなりの浩二の先制攻撃ですっかり忘れてたけど、オレは浩二に手料理を振る舞って仲直りしようとしてたんだよね。
「お前の料理……」
「何だよ。何か文句あるの?」
 わざとらしくあからさまに胡散臭げな顔をする浩二に、肘鉄を食らわそうとしたらよけられた。
 だけどめげない。そのまま浩二の腕を取って、玄関に突っ立ったまま話していたのを中に入ろうと引っ張った。
「待て、まだ靴を――」
「早く脱いで」
「靴だけでいいのか?」
「……今のところは」
 ふたりして顔を見合わせてバカなことを言っちゃったりして、何だかもうすっかり元の鞘に収まっちゃった感じだけど、とにかく初の手料理は食べてもらいたい。
 オレはリビングダイニングへと浩二を引っ張って行った。



「で? その料理って?」
 リビングに着いた浩二は、何だかんだ言っても普段まったく料理を作らないオレの料理って言うのがどんなものか気になるらしく、カウンターで仕切られたキッチンの方を覗き込んだ。
「まだ。これから作るの。熱々の方が美味しいから、浩二が帰ってくるの待ってたんじゃないか」
「そうか、楽しみだな。何の料理かくらい教えてくれよ」
「『じゃがセロウィンナー』なんだ」
「ジャガって、お前……」
 名前を言ってもどんな料理か分かんないだろうなー、なんて悪戯心で笑いながら言ったオレに浩二の顔が引きつった。
 オレ何か変なこと言ったかな?
「お前、俺がどこに出張に行ってたか忘れたのか?」
「どこって……あ……」
 言われて気付いた。そう言えばドイツって、ドイツの名産品って――
「で、でもさ、いくら何でもそんな毎日それだったってわけじゃないだろ?」
「毎日それだ」
 浩二は思い出すだけでげんなりしたらしく、胃の辺りを押さえながら本気で嫌そうな顔をした。
 そうだった。浩二が出張で行ったのはドイツ。ドイツの名物と言えばビールに、ジャガイモとウィンナーだった。
 日本に帰ってきてまでジャガイモとウィンナーなんて見たくもないと言うことか。
「ホントにそんなに毎日食べてたの?」
「ああ。向こうはサービスのつもりだったらしいが、毎日食わされた。さすがに色々種類は豊富だったが基本はウィンナーだし脂っこいし。大体、毎晩夕食は9時頃に始まって牛の餌かと思うくらい大量に盛られたジャガイモとウィンナーを食ってビール飲んで、終わるのは12時だ。それで翌朝の6時半にはジョギングに行こうなんて笑顔で誘いに来るんだぞ! ドイツ人と日本人じゃ人種が違うと言っても、あいつらは同じ人間とは思えないタフさだ」
 一気にまくし立てた浩二の勢いに、ただならぬ物を感じた。
 これは、本当にものすっごく大変だったらしい。
「大変だったんだね」
「ああ。すごく大変だったさ」
 浩二は、気迫に押されて労いの言葉以外言えなくなってしまったオレの首筋に腕を回して抱き寄せた。
「それでも、帰ればこうして俊也が慰めてくれるだろうと思ったから乗り切れたんだ」
 うーん、それは怪しいな。
 でもオレより少し背の高い浩二の腕にすっぽり収まっていると気持ちがいい。
 安積さんは何度も頭を撫でてくれたけど、抱きしめてはくれないもんな。
 やっぱり言葉だけじゃなくて、身体のぬくもりが欲しい。
 単にオレが淫乱だからかな? だとしても、今のこの状態が心地ちいいと感じる気持ちはどうしようもない。
「俊也……会いたかった。ずっとお前のことを想ってた。お前を一番、愛してるよ」

 耳元で囁く浩二の言葉が身体中に染み渡って、全身の力が抜けていくのを感じた。

(up: 31.Dec.2008)

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