洗面所を出て部屋に戻ると、オレはすでに座っていた安積さんの向かいに用意されたクッションの上に座った。
テーブルにはすでに朝食の用意が調っている。
クロワッサンは卵と薄切りのハムを挟んだクロワッサンサンドに。
4pくらいに切り分けられてたフランスパンは、バターと煉乳が塗られた中央はしっとり光っていて全然焦げてなんてなくて、甘い匂いを放って美味しそうに焼き上がっていた。
それにサラダとコーンスープ付き。
「また朝から豪勢ですね。こんなに美味しそうになっちゃって。昨日食べちゃわなくてよかったー」
昨日の夜、パンだけでも食べちゃおうかと思ったけど我慢したんだよね。空腹を耐えた甲斐があった
「もしかして宮本君、昨日の夜は何も食べずに待っててくれたの? ごめんね。昨日は仕事でトラブルがあってなかなか帰れなくって」
申し訳なさそうに謝る安積さんを、オレは両手を横に振って遮る。オレが勝手にしたことで何で安積さんが謝っちゃうんだよ。
「結果的にそうなっちゃったってだけの話で、勝手に上がり込んで勝手に寝ちゃったオレが悪いんです。昨日は一緒に晩ご飯を食べたらカプセルホテルに行こうと思ってたんですけど、ついつい寝ちゃって――」
「カプセルホテルか。僕も一度だけ泊まったことがあるけど、あの圧迫感は僕は駄目だな。別に閉所恐怖症とかじゃ無いんだけどね。あそこよりはまだ家の床の方がましだと思うよ」
安積さんは体格がいいもんな。普通の人より狭く感じるだろう。オレだってあんな狭いところよりここの床の方が硬くたってずっといい。
でも勝手に泊まっちゃうのは駄目だよな。
「だからって勝手に入り込んだあげくに寝ちゃって、本当にすみませんでした」
「――あのね、僕が大学生だった時の話なんだけど、アパートで1人暮らしをしてた友人が部屋に戻るとベッドに猫が寝てたんだ。開けっ放しの窓から入り込んだらしい。それでそのまま居着いちゃったんだって。その話を聞いて、僕は凄く羨ましかったんだ」
「それはつまり、そのー……オレは野良猫ですか」
「あ、いや、猫って言うか……誰も居ないと思ってた部屋に誰かが居てくれるとなんかいいよねっていう話で、宮本君が野良猫ってわけでは……でも、宮本君ってどっちかって言うと犬と言うより猫っぽいよね」
自己嫌悪で落ち込むオレを慰めようとしてくれた安積さんの、ちょっと例えは変だけど暖かい言葉が嬉しくって、少し気分が浮上する。
「とにかく、冷めちゃうからご飯にしよう。フランスパンが硬くなっちゃうよ」
安積さんは笑顔が戻ったオレに安心したように明るく言って、フランスパンを手に取った。
オレも安積さんに習って朝食をいただくことにする。でもオレは甘い物は後の方がいいんでクロワッサンサンドに手を伸ばした。
「いただきます」
一口囓ると、一晩置いたクロワッサンにしては表面にさくっとした歯触りがある。ちょっとオーブンで焼いてからサンドにしたんだ。芸が細かいなぁ。
感心しつつ、コーンスープを飲もうとパンを皿の上に置いてスプーンでスープをかき混ぜてみると、底にコーンの粒がどっさり沈んでいるのに気付いた。これは粉末スープじゃ有り得ない量だぞ。液体のレトルトパックとかになってるちょっとお高いスープだよな。
「安積さんって食事にこだわる方なんですね。このスープってば粒が沢山入っててゴージャスです」
「ゴージャスって程じゃないけど、ちょっとした贅沢かな? 具だくさんのスープが好きだから色々なメーカーを買い比べて、今のところここのメーカーのが一番粒が多いからこればっかりなんだ。味もいいしね」
そう言われて、オレは味の方も確かめるべくスープをすくったスプーンを口元まで持っていったが、ちょっと唇を触れさせただけで熱そうなんでもう少しさまそうと手を止めた。
「宮本君、君もしかして猫舌? 熱いのが苦手なんじゃない?」
「……そうです」
あーあ。バレちゃった。
「じゃあスープは温めにしておけばよかったね」
別に猫舌なんて隠す事じゃないんだけど、こういう誤解を受けるのが嫌だからなるべくバレないようにしてたのに。
「いえ、猫舌だけど初めからぬるい物は嫌いなんです! 熱い物は熱い方がいいです。よく猫舌の人は熱々の物が食べられなくて可哀想なんていう人がいますけど、大きな間違いです。猫舌は湯気の立つ熱い料理が冷めていくのを楽しみ、さらに冷めたものでも美味しく食べられる幸せな人種なんです!」
「うーん、その見解は始めて聞いたけど面白いね。確かに冷めたものでも美味しく食べられるっていうのはいいよね。僕は熱々で食べたいからって焦って口を付けて上あごを火傷しちゃったりするから、その余裕をちょっと見習うべきかも」
思わずおバカな熱弁を振るってしまったオレに、安積さんは呆れることもなくにっこり同意してくれた。
「それに、宮本君は猫っぽいから猫舌が似合ってるよ」
「そういう安積さんは犬っぽいですよね。大型犬のワンコみたいです」
くすくす笑いながら言う安積さんに思わず言ってしまったが、安積さんは気を悪くする風もなくさらに笑った。
「ははは、それ、よく言われるよ。猫好きなのに犬っぽいってね。でも犬は飼ったことがないから、自分が犬っぽいかどうかは分からないな」
「猫は飼ってたんですか?」
「うん。実家の母と祖母が猫好きでね。生まれたときからずっと家では猫が飼われてたから、猫の居ない生活は大学生になって1人暮らしを始めてからだよ」
「それでこの有様ですか」
「うん。そう。この有様だよ」
オレが悪戯っぽく猫グッズの棚に目をやると、安積さんはまた笑った。
この懐っこさは犬系だ。デカい図体を顧みず跳びかかってじゃれてくる黒のラブラドールって感じ。オレも犬は飼ったこと無いけど、昔近所にそんなのが居た。可愛くって思いっきり抱きしめたくなる。
――駄目だ。オレはやっぱりこの部屋からさっさと出て行かなくちゃ。
いくら浩二が浮気したからって、オレが他の男に惑っていい訳はない。
それに何より安積さんは彼女持ちで、オレを拾ってくれた恩人で――好きになっちゃいけない人だ。
オレはさっさと食事を済ませ……たかったんだけど、スープが熱かったんでゆっくり食べ、さらに食後のコーヒーまで入れてもらってマッタリと遅い朝食を堪能した。
まあこれくらいはいいよね。
それからオレはまた昨日と同じく朝食の後片付けだけはさせてもらい、玄関で安積さんに見送られた。
「もう管理人さんに連絡が行ってるといいね」
靴を履いてもう一度礼を言ったオレに、安積さんが優しい言葉を掛けてくれる。
「はい。まだ連絡が付いてなくても今晩は友達の家に泊まりますから、もう安積さんのベッドを乗っ取ったりしませんから安心してください」
「でもまだメインのハンバーグが残ってるから、よかったら晩ご飯を食べにおいでよ」
もう今晩は来ないようにしようと決意しているオレを、安積さんがにっこり笑顔で誘惑してくる。無邪気って罪だよな。
「安積さんなら2人前くらいペロッといけちゃうでしょ? それか、彼女さんを呼んであげるとか」
「ん……そうだね」
さりげなく今晩彼女が来れるかどうか鎌を掛けたオレに、安積さんは曖昧に笑って答えなかった。彼女さんはあまり泊まりに来られないのかな?
とにかくオレはマンションに帰れようと帰れまいと、今晩ここに来ることはないだろう。
でも、借りたお金を返しには来られる。
オレは明るく手を振って、安積さんのアパートを後にした。
『アーバンハイツ光が丘』の名の通り、坂の上の日当たりのいい高台に建っているマンションの前で、オレは軽く深呼吸をした。
ここの管理人さんとは昨日も話したけど、あんまり取っつきやすい人じゃなかったんだよね。
でも話をしないわけにはいかない。オレは玄関を入ってすぐのエントランスホールの端にある管理人室に向かった。
けど、管理人室には誰もいなかった。閉まった小さな窓から中の様子を窺っても誰もいないし、声を掛けても出てこない。
仕方がないんでオレは一端マンションの外に出て、宅配の人とかが呼び出しに使うインターホンで管理人さん呼んでみることにした。
「"――はい"」
チャイムを押すと、しばらくしてインターホンから年配の女性の声で応答があった。
「あの、先日うかがった宮本と言いますが、410号室の支倉さんから連絡が来ていないでしょうか?」
「"あ……今、夫が出掛けておりますので、私ではちょっと……"」
「いつ戻られますか?」
「"さぁ……昼には戻ると思いますけど"」
管理人の奥さんか。頼りないなぁ。しかも、どうしようかと悩んでる間に勝手にインターホンを切っちゃったみたいで応答が無くなっちゃうし。
仕方なくオレは管理人さんが戻るという昼まで待つことにした。と、言っても時刻はまだ10時前。ボケッと待つには長すぎる。
オレは近くの本屋とレンタルビデオショップを梯子して、立ち読みしたり最新映画情報なんかのチラシを見たりして何とか時間を潰し、11時半に再びマンションに戻ってきた。
もうそろそろ管理人さんは戻ってるかな? と思いつつも、またあの覇気のない管理人の奥さんと会話するのはためらわれてマンションの前で躊躇していると、薄緑色の作業服を着てホウキとちり取りを持った50歳半ばくらいのおじさんがこっちにやって来るのが見えた。
あの顔は管理人さん! どこかに出掛けた訳じゃなく、マンションの周りの清掃に行ってただけか。だったら探したらその辺にいたんじゃないか! 言ってくれれば探したのに。1時間半も無駄な時間を過ごしてしまった。
がっくりしながらも、とにかく会えたわけだし管理人さんを捕まえて話をすることにした。
「あの、すみません! 昨日お邪魔した宮本ですけど」
「え?」
「あの、支倉さんの部屋から閉め出された……」
「ああ、昨日の」
何とも情けない自己紹介をするオレに、やっと昨日のことを思い出したのか管理人さんは頼りないながらも頷いた。
「あの、支倉さんに管理人さんにオレのことで連絡を入れてくれるように伝言をしたんですけど、まだそちらに連絡は行ってないですか?」
「さぁ……来てないねぇ」
ああ、奥さんと同じような素っ気なく覇気のないこの対応。こっちの気力まで下がりそうなのをぐっと踏みとどまる。
「あの、出掛けてらした間に連絡が来てたかもしれないんで、確かめてもらえませんか?」
「ああ、ちょっと待ってて」
そう言って管理人さんは、急ぐでもなくのんびりとマンションに入っていった。
オレも付いていくべきか悩んだけど、待っててと言われたのでマンションの入り口で待つことにした。
管理人さんから見れば、勝手に転がり込んだオレが本当にここの住人の同居人かなんて分からないもんな。ヘタすれば不法侵入で警察を呼ばれちゃうかもしれない。
でも同居するのにマンション側に手続きとかって要ったのかな? オレはそれすら知らない。もし手続きが居るなら浩二が帰ってきたらちゃんとしてもらおう。
そんなことを考えている間に、またのっそりと管理人さんが出てきた。
「何にも来てないですね」
「ええ? まだですか」
前に浩二が宅配便の荷物の事で管理人室に携帯で電話をしてたのを知ってるから、浩二が管理人室の電話番号が分からないから電話が掛けられないって可能性はない。
浩二の方に会社からまだ連絡が行ってないのか、浩二が連絡をしてくれてないだけなのか、どこで連絡が止まってるのかさえ分からない。
もう一度浩二の会社に電話を掛けるか? だけど、仕事先に何度も電話をしたら浩二に迷惑が掛かるかもしれない。
なんてどうしようか考えてる間に、管理人さんはオレを無視してさっさと戻って行っちゃうし。
オレはひとりぽつんと、為す術もなくマンションの玄関先に取り残された。
ほんの2日ほど帰っていないだけで、何だか遠い場所になっちゃった気がするな。
そんな感慨に浸りながら歩道からぼんやりマンションを見上げるオレの後ろで、呼びかけるように軽くクラクションが鳴った。
ドライバーが誰か知り合いでも見つけたのかなと思いつつ無視していると、もう一度鳴った。
うるさいなーと思って振り返ると、マンションの少し手前に止まった白い外車の窓から見知った顔がのぞいてこっちに手を振っていた。
「シューンちゃん。今からバイト?」
ドライバーが見つけた知り合いはオレでしたか。
にこやかに声を掛けてきたのは、浩二のゴルフ友達で税理士の松坂勇実(まつざかいさみ)。
気付かなかったふりをしてさっさと逃げればよかった。振り返ったオレに向かって軽薄な笑顔で笑いかける松坂に、オレは外面用笑顔で会釈した。
挨拶だけしてとっとと立ち去ろうとしたんだけど、車はこっちに近づいてきてオレの横で止まると、松坂は運転席の窓から顔を出して話しかけてくる。
左ハンドルの車ってナンパ向きだよな。
「乗っていきなよ俊ちゃん。送ってあげるからさ」
「いえ、今日はバイトじゃなくて、ちょっと」
「どこ行くの? 俊ちゃんならどこにでも連れて行ってあげちゃうよ」
構って欲しくなくて曖昧に応えてるのに、相変わらず空気の読めない人だな。この人の、この本人はフレンドリーなつもりのなれなれしさが苦手なんだよね。
「いえ、大学に行くだけなんで結構です」
「あれ? 大学ももう夏休み終わったの?」
「いえ。授業はまだですけどちょっと用があるんで。それじゃあ」
「じゃあ大学まで送ってあげるよ。ついでにどこかでお茶でも飲もうよ」
にっこり笑顔で頭を下げて、それでさりげなく会話を終わらそうとしたんだけど、さらに食い下がられるどころかお茶に誘われちゃったよ。
この人はオレや浩二と同類。
でも同類といっても同じだと思いたくない。浩二の友達のくせに、オレが浩二と同棲を始めてからもちょっかいを掛けてくる非常識な人だから。
浩二も止めてくれればいいのに、松坂は浩二の会社の頼んでいる税理士事務所に勤めていて仕事絡みの付き合いもあるから無下に出来ないとかで何も言ってくれないし「恋人はモテないよりモテる方が嬉しいじゃない。それに、俊也には俺しか目に入らないだろ?」なんて言う。浩二のこんな自惚れとも取れる程の自信家な所も好きなんだけど、お陰で今、困らされちゃってるんだよね。
「ね? 行こうよ。大学の用が急ぎなら、終わるまで待っててあげるから」
松坂は本人は格好いいつもりだろうけど、傍から見れば鬱陶しそうなだけの長く伸ばした前髪をかき上げてオレを見上げる。
苦手でも浩二の友達だし、ここまで言われて断るのは角が立つ。それに交通費が浮くのは正直言って助かる。
同居前は大学まで徒歩10分くらいの場所の学生アパートに住んでたんだけど、ここからじゃ電車で30分。電車賃は片道で390円かかっちゃうんだよね。
「それじゃあ、送ってもらえますか? でも、学校での用事が何時に終わるかは分からないんで送ってもらえるだけで構いませんから」
「気にしないでよ。俊ちゃんの為なら何時間でも待っちゃうから。美味しいものでも食べに行こう」
遠回しにお茶は断ってるのに、食事にランクアップしてるし。
これは多少交通費が浮くからって早まったかも……と、思ったけど後の祭り。松坂はわざわざ車から降りてきてオレを助手席側にエスコートした。
「どうぞ」
芝居じみたポーズとセリフでドアを開けられ、オレは引きつった笑みを浮かべながら車に乗り込んだ。