次の日の土曜日。俺は日高と近くのバス停で待ち合わせて、夕陽丘運動公園に向かった。
「寒い! 風が冷たーい」
バスを降りると、木の葉を舞上げながら吹き付けてくる冷たい北風のお出迎えにあってすくみ上がる。温かいバスの中では肩に掛けてただけのマフラーを、しっかり首に巻き直した。
日差しは暖かいけど風が強い。雲ひとつ無い澄んだ空に木の葉が舞う。
"夕陽丘"と言うだけあって小高い丘の上にあるこの運動公園は、風通しがめちゃくちゃよくて寒いんだよね。
「駆け足で行こう! そうしたらちょっとは暖まるよ」
久しぶりの日高との外出でハイテンションになってた俺は隣の日高の腕にしがみつくと、そのまま引っ張って陸上競技場に続く歩道の坂を小走りに上りだした。
「ちょっと、聡!」
「ほら、早く!」
俺に引っ張られてバランスを崩しそうになって、苦笑しながら日高も走り出した。
「あ、もう始まっちゃってるんだ」
俺が目指したのは、丘を登り切った運動公園のちょうど中央にあるセンタービルの手前にある陸上競技場。その閉じたゲートのフェンス越しに中をのぞき込んだ俺は、中の光景にがっかりして肩を落とした。
競技場の中は工事用の足場が組まれたり、地面のタータンの一部が剥がされたりしていた。
今日は工事はお休みなのか中に人はいないけれど、もう工事は何日か前に始められていたみたいだ。
この競技場が新しく改装されると聞いて、最後にもう一度今の姿を見ておきたかったのに。
俺が物心ついた頃にはもうあったくらいだから、ずいぶん古いこの夕陽丘の競技場。
俺が初めて走ったちゃんとした競技場はここだった。
初めて踏んだタータンの感触。地面に手をついて直接触ってその不思議な感触を確かめたことを、昨日のことのように思い出せる。
競技場から今はもう足場が組まれている観客席を見上げて、応援に来たお父さんや母さんを探したりもした。
あそこで日高もよく俺が走るのを観ていてくれた――
「ねえ、ぐるっと周りを一周してもいい?」
「いいよ」
別に周りに何があるというわけじゃない。ただ色んな角度から眺めておきたかった。
歩き出した俺に日高も付いて来てくれる。
「あの下が控え室になってるんだ。それからあそこが幅跳びの砂場で――」
「あの穴が空いてるところだね」
「うん。もう砂は運び出されちゃったんだ。結構深かったんだな、あの砂場」
所々塀やフェンスが低くなったところから中をのぞき込んで、独り言のように説明する俺に日高は一々付き合ってくれた。
俺の楽しい思い出がいっぱい詰まった場所。この場所が変わってしまうだなんて考えた事もなかった。
ずっと変わらないと思っていたものが変わっていく。
―― こんな場所に、日高と一緒に来るんじゃなかった。
「じっとしていると寒いね。向こうに自販機があったから何か暖かいものでも飲もうか?」
ぐるりと一周し終えてゲートの前で立ち止まったきり動けない俺に、日高が声を掛けてきた。
ゲートが閉まってて中には入れないんだし、いつまでもここで突っ立っていたって仕方がない。何より日高は退屈だろう。
俺はもう一度だけ中を振り返って目を閉じて、いつもの変わらない競技場を心に思い浮かべてからその場を後にした。
この寒い中、閉鎖された陸上競技場の周辺に来る人なんていなくて、辺りを見渡してみても居るのは俺と日高のふたりきりだった。
俺達は自販機で温かいコーヒーを買うと、競技場の脇の休憩所に向かった。
休憩所には長椅子と机があって、脇に生えてるこんもり茂った木が風を防いでくれて少し寒さがましだ。
とはいえやっぱり寒いことは寒いんで、俺は人目がないのをいいことに日高にぴったりくっついた。日高は一瞬驚いたように俺を見てからにっこり笑った。
寒いのもそう悪くないかも。
温かいコーヒーと日高のおかけで少し温かくなった。
「ごめんな日高。こんな退屈なとこに付き合わせて。帰りに"青の館"でスパゲッティでも奢るよ」
"青の館"はこの運動公園の近くの小さな喫茶店。ここに来た後は必ずと言っていいほど立ち寄るお気に入りの店だ。
しばらくここに来ていなかったから"青の館"にも行っていない。たっぷりのミートソースが乗ったスパゲッティと店のおばちゃんの笑顔が恋しい。
「"青の館"に寄るのはいいけど、奢ってなんてくれなくていいよ。何処か行こうって誘ったのは僕なんだから。それに空気のいい場所を歩いて久しぶりにいい運動になったよ」
そうか。日高は俺と違って受験には勉強だけでスポーツは必要ないから、運動不足になりがちなんだ。
そう思ったらちょっとだけ気が楽になった。
「あのさ、日高。……日高は、何処の大学を受けるの?」
この気分のままなるべく何気ない風で、俺は日高に訊きたくて、だけど訊けなかった事を訊いてみた。
日高が何処の大学に行くとしても、どのみち離れてしまうことに変わりはないと思うと今まで訊けなかったんだ。日高の方からも話題にはしてこなかったし。
「明興学院大学だよ」
「メイキョウ? ……そこって、何処にあるの?」
「幸急電鉄東山線の終点の高田駅から徒歩5分」
聞き覚えのない大学に場所を訊ねてみると、すごく聞き覚えのある鉄道名が出てきて驚いた。路線は違うけど俺も志望校に受かれば利用する事になる電車じゃないか。
「え? もしかしてここから近いの? その明興大って」
「すぐ隣の県さ。ここからなら電車で2時間以上かかるけど、君の志望校の成徳大学からならバスで30分くらいだよ」
「えええ?」
俺は陸上に力を入れてて家から通える範囲の大学、って理由で県内の成徳大を選んだ。
電車とバスを乗り継がないといけないけど、時間的には1時間半で通えるからまあ何とか毎日通学出来る圏内だったから。
家は俺が中学生の時に父さんが死んで、ばあちゃんと母さんと妹と俺の4人家族で男は俺だけだから、せめて妹が高校生になるまでは家にいようと思ったんだ。
だけど日高は何で?
日高なら東大とか筑波とかの国立大学でも十分狙えるだろうに、どうしてそんな近くの大学にしたんだろう。
「池田教授って知ってる? 今、日本で一番ノーベル賞に近い物理学者って言われてる」
「んー……ああ! テレビで見たことあるよ」
名前はうろ覚えだったけど、"一番ノーベル賞に近い物理学者"ってフレーズには聞き覚えがある。
教育バラエティ番組に出演してたのを観たんだけど、結構おもしろい教授だった。
だけど突然なんでその人の名前が出てくるんだ?
「池田教授はオーストラリアの大学で教授をしてるんだけど、今は日本に帰ってきていて来年から2年間、明興大で教鞭を取るんだ。日本で彼の授業を受けられる貴重なチャンスなんだよ。父が精密機器の製造関連の会社をやっているせいか、僕も物性物理学には興味があったんだ」
何だ、そう言うわけか。
――俺と離れたくないからかな、なんて少しだけ思っちゃった。
「……と、言う上手い建て前が出来てよかったよ」
「え?」
「本当は君と離れたくなかったから、君の志望校と近いそこに決めたんだ」
「ええええ? そんなことで進路決めちゃったの?」
日高だったら国立でも何処でも行けるだろうに、俺のためにいくら有名な教授の授業が受けられるっていっても、明興学院大学なんて聞いたこともないような大学を選んじゃうなんて。
「そんなことって何? 僕の希望をそんなこと呼ばわりするなんてひどいよ」
「ひ、ひどいって、だって」
「出来れば君と同じ大学に行きたかったけど僕が成徳を選ぶ上手い理由がなかったから、君を追いかけて行ったのが見え見えで、それで君に迷惑がかからないようにと思って成徳の近くの明興で妥協したんだ」
大学進学なんて大事な進路を俺中心で決めちゃったわけ?
焦りまくる俺とは対照的に、落ち着き払った日高は淡々と話し出した。
「僕には昔から目標も夢も何もなかったから、大学なんて何処でもよかったんだ。ただ何となく、親も行くのが当然と思ってるみたいから行っておこうかな、って程度にしか考えてなかった」
「でも、それにしたって日高は頭がいいんだからもっといい大学に行けるのに」
「いい大学って何? 本人が行きたい大学が"いい大学"なんじゃないの? それに僕はよく頭がいいって言われるけど、ただ記憶力がいいだけ。教科書や授業の内容を丸暗記しているだけなんだから大したことじゃないよ」
「そのただ覚えるだけって言うのが普通は出来ないんだったら」
嘘みたいな話だけどこれは本当。日高はめちゃくちゃ記憶力がいい。
テスト前になると黒板をきっちりと書き写し先生が強調した言葉まで書き留めてある日高のノートは、ノートを取るのをサボっていた奴らの間で引っ張りだこになっていつも本人の手元にはなかった。
だから日高はろくにテスト前の復習を出来なかったはずなんだけど、ノートに書かれていた範囲から出たテスト問題にはすべて正解していた。
疑り深い奴はノートのコピーを取っててこっそり必死で勉強してるんじゃないかなんて言ってたけど、そうだとしても全科目のノートを丸暗記なんて普通は出来ない。
でも日高いわく「見て聞いて書き留めたことを忘れる方が難しい」んだそうだ。
それは十二分に頭がいいと言うか、すごい才能だと思うんだけど。
「僕はスポーツも勉強も、大した努力をしなくてもそこそこ出来たから夢中にはなれなかった。無難に出来るから努力も知らない。失敗をしないから挫折も知らない。つまらない毎日をただ無目的に過ごしてた。そんな僕と違って、君は元からの恵まれた才能を伸ばそうと必死に頑張っていた。陸上って相手との勝負というよりも、自分自身に挑むスポーツだと思うんだ。特に聡は事故にあって走れなくなったときもリハビリを頑張って、自分にも挫折にも負けずに走り続けたんだから凄いよ」
「そんな。別にそんなの凄くないよ。俺はただ走るのが楽しいから走ってるだけで……」
べた褒めされて嬉しいよりも困惑する。走るしか能がない陸上バカの俺が何でも出来る日高に凄いなんて言われても、からかわれてるんじゃないかと思える。
だけど日高は真剣だった。
「始めはただそれを眺めていただけだったけど、どんどん惹き込まれて……ずっと見ていたいと思った。誰よりも、一番近くで、ずっと。それが僕の希望になった。君の近くで君を支えられる存在になれたらいいなって」
「側にいたいって……でも最近は日高はあんまり会ってくれなかったじゃないか」
最近は会いに行くのは大抵俺の方だった。この状況でそんな事言われても素直に信じられない。
そりゃ日高は生徒会長で忙しかったんだけど、でもそんなに俺のことが好きだっていうならもっと会いに来てくれてもよかったんじゃないか?
何となく避けられてる気さえしてたのに。
「それは君のことを避けてたから」
「え?」
何となくじゃなくて、本当に避けられてたのか!
何でそんな……わけが分からず混乱というかびっくりする俺に、日高はさらにびっくりすることを言ってきた。
「君を傷つける者は許さない。僕が君を傷つけそうなら、僕を君から引き離さないと……側にいると我慢が出来なくなりそうだったから」
「我慢って……俺、何か日高の気に障るようなことした?」
体育祭のリレーの事とか、西森を日高と間違えたとか殴られても仕方がない事に心当たりがあるだけにちょっと弱腰になる俺に、日高は小さく笑った。
「そうじゃないよ。君とキスしたいし……それ以上も、したい。だけどそのことで君が体調を崩しでもしたら、受験に差し障るじゃない。実技試験で走らなきゃいけないのに」
「あ、怒ってたわけじゃないんだ。でも、え、えっと……それだけの理由で?」
殴るとか怒るのを我慢してたわけじゃなく、キス以上のことを我慢してくれてたわけ? と言うか、それがなければ……キス以上もありなのか?
「それだけ。それがすべて。それさえなければ今すぐでも君が欲しい」
さすがにここまで言われれば、いくら鈍い俺だって日高が何を言いたいのか分かる。
びっくりしてドキドキしていた心臓が、今度は違う意味でドキドキしてきた。
「君の夢を支えていきたい。夢を叶える君を見ていたい。誰よりも近くで、ずっと。それが何の夢も持っていなかった僕が初めて得た夢なんだ。 ――もちろん君が嫌でなければ、なんだけど」
最後の一言は俺の方をうかがうように、ちょっと不安げに付け足した日高の腕にしがみつく。
「嫌じゃない。嫌なわけ無いだろ。俺も日高と一緒にいたい」
卒業したら離ればなれになる。その事実から目を逸らしたくて、俺は離れてもまた会えることもあるって漠然と考えてそれ以上深くは考えなかった。
だけど日高はその先まで考えて行動していたんだ。俺と離れたくないって日高も思ってくれてたんだ。
「君は自宅からの通学だけど、僕はアパートを借りて1人暮らしをするから、週末とかは泊まりがけで遊びに来られるから、来てよ」
「1人暮らしするんだ。いいなあ、どんなところにするの?」
「親戚に不動産屋がいて、もう下宿先は押さえてあるんだ。まだ荷物は運び込んでないけど、いつでも使えるようにはなってるから、よかったら君の受験が終わったら泊まりに来ない?」
「ホント? いいの?」
1人暮らしのアパートなんて行ったこと無いから興味津々だ。しかも日高が暮らす場所なんて気になりすぎる。行く気満々な俺に、日高は変な確認をしてきた。
「……無事に帰してあげる自信はないけど、それでもいい?」
「え? そこ、何か出るの?」
日高が思わせぶりに言ってくるから、思わずその下宿先に何か―― 幽霊でも出るのかと思って一瞬引いてしまった。
俺、そう言う得体の知れない物って苦手なんだよね。走って逃げられる物でもなさそうだし。
だけど日高は俺の言葉に吹き出した。
「そうじゃなくて……こういうこと」
日高は俺の顔を軽く持ち上げて、いつものようにキスしたきた。
いつもならそのまま抱きしめてくれる日高の手が、今日は俺の膝に置かれてそのまますっと上に上がってくる。
つまり、その……内ももから股間に手を伸ばされて、反射的に身体が強ばる。そっと触れられるだけで背中から首筋までぞくっとした感覚が走って背中を反らしてしまう。
「あっ、は……」
そのはずみで僅かに離れた唇を一時も離れたくないみたいに日高が追ってきて、また唇を塞がれる。
息が詰まって苦しなるほど呼吸も心も乱れる。だけど逃げようとは思わなかった。
それどころか、もっと触って欲しかった。俺も日高の背中に腕を回して日高を抱きしめる。
「聡……」
「行く。日高の所に行く」
ずっと日高にこうされたかった。俺も日高に触れたかった。
抱き合ったままお互いを確認し合う。もっと感じたいし、一緒にいたい。
だけどちょっと気になったことがある俺は、顔を上げて日高を見た。
「でも日高、料理できるの? 下宿なら自分でご飯作らなきゃいけないんだろ? 俺は目玉焼きくらいしか作ったこと無いぞ」
「聡……まったく君は……。僕も卵焼きくらいしか作ったことはないけど、何とかするよ」
「ホント? じゃあ泊まりに行く」
苦笑いする日高の腕を掴んで頭をすりつける。すっごい楽しみだ。日高の料理も、それ以外も。
「あー、何かご飯のこと考えたらお腹空いてきちゃった。“青の館”に行こうよ」
「そうだね」
立ち上がって腕を引っ張る俺に、日高も笑顔で立ち上がり一緒に運動公園の出口を目指す。
帰る前にもう一度、競技場を振り返る。
立ち止まる俺の手を、日高が握った。
「工事が終わったら、新しくなったここを見に来ようよ」
ずっと変わらないと思っていたものが変わっていく。
―― だけど、無くなるわけじゃない。新しく生まれ変わるだけ。
「うん。また一緒に来よう」
俺は新しい関係への期待にワクワクしながら、日高の手を強く握りかえした。