電車の窓から眺める空は、少し雲が多いけど雪は降りそうにない。
微妙な天気とは裏腹に俺の気分は爽快だった。
俺は今日、日高と一緒に日高が大学に合格したら住むことになるというマンションに向かう電車に乗っていた。
終点に近づくにつれ乗客は減ってくる。俺はほとんど貸し切り状態の車内で座席に座ったまま身体をひねり、窓にへばり付くようにして外を眺めながら日高に話しかけた。
「あ、あそこはグラウンドじゃなくて公園だよね? 後で行ってみようよ」
「時間があればね。あっちはマンションとは逆の方向だから」
「ふーん、残念」
日高の返事に俺はまた窓の外に視線を戻す。
「ほら、あの茶色い建物。あれが明興学院大学だよ」
「へえー」
外を眺める俺に、日高が公園のさらに奥の茶色いどっしりとした建物を指差した。公園の木ですぐに隠れてしまったけど、あれが日高が通うことになる大学なんだ。初めて見た。
幸急電鉄はたまに利用するけど、この山の方に向かう東山線にはほとんど乗ったことがなかったから車窓を流れる景色も新鮮だった。
新鮮だけど、これからは馴染みになる風景。
駅に近づきスピードを落とした電車の窓から見えた、周りに大きな木が植えられていてジャングルジムみたいな物がチラッと見えた広場はトレーニングをするのに良さそうだった。
あの看板はレンタルビデオ店かな? 本も置いてあるといいな。そんなことをチェックしながら車窓を眺めていると、電車は目的地の終点高田駅に到着した。
「さ、こっからは歩きだよね? 買い物も途中でするって言ってたけど、お店はどこにあるの?」
さっき日高が家は公園とは逆の方と言ったから、その方に背を向けて歩き出そうとした俺を日高が呼び止めた。
「待って、聡。マンションはそっちだけどスーパーは向こうなんだ」
「あ、そうなんだ」
俺は公園の方を指差す日高の隣に戻ると、大人しく日高に付いていくことにした。
ちょっとテンションが上がりすぎだ。落ち着かないと。
俺は異様に上がったテンションを下げようと、日高に気付かれないようそっと深呼吸をした。
今までただ友達の家に泊まりに行くだけなら何度かあったけど1人暮らしをしてる友達なんていなかったんで、他の家族がいないくて自分達だけで過ごせるなんてことは初めてだったから、俺は朝から興奮しっぱなしだった。
正しくは日高はまだ1人暮らしをしているわけじゃないけど、不動産屋をしているという日高の親戚の人が、空き家にしているよりは誰かが居る方が防犯上いいとかで早々に部屋の鍵を渡してくれたお陰で、日高はまだ受験も終わっていないのに大学への下宿先だけは確保できているという状況だった。
これで日高が志望の明興学院大学を落ちちゃったらシャレにならないけど、日高に限ってそれはないだろう。
日高は頭がいいし、何より志望校のランクを落としているし……俺のために。
今までの成績から考えれば明興大よりもっと偏差値の高い大学だって狙えたのに、日高は俺と離れたくないからなんて、そんな理由で進路を決めてしまった。
俺は自分にそこまでして貰うほどの価値があると思はえない。だけど、俺も日高と一緒にいたくって、反対しなかったどころか喜んでしまったりした。
だから、俺はせめて日高を失望させないように頑張ろうと決めた。目指すはオリンピック! は無理だとしても、とにかく成徳大学で精一杯走って成果を出そう心に誓った。
とにかくそんなこんなで一緒に居たいってお互いの気持ちを確認しあった俺達は、卒業したらもう学校では会えないから、この日高の下宿先の部屋で会おうと決めた。
日高のセンター試験はもうすぐだけど、推薦で受験を受けた俺は一足お先に灰色の受験生という肩書きから解放されていたから、俺の大学合格祝いもかねてふたりだけでクリスマスパーティーをしようと日高が初めて下宿先に誘ってくれたんだ。
クリスマスパーティーをすると言っても、目玉焼きと卵焼きしか作れない俺達でも何とかなる料理って事で鍋パーティーにすることにした。
鍋なら材料を切って煮るだけでいいから。
ただちょっとクリスマスらしくということで、鳥の水炊きにすることにした。
本当ならクリスマスは鵞鳥とか七面鳥を食べるんだろうけど、日本人のクリスマスなんてこんなもの。大体どうして鳥を食べるのかのか由来すら知らないんだもん。それでいいよね。
それからふたり分のショートケーキ。ふたりだけのパーティーならそれだけで十分だ。
そんなささやかなパーティーの食材を求めて、俺達は駅近くのスーパーへと向かった。
スーパーは日高の下宿から逆方向だそうだけど、駅からそんなに遠くはなくてすぐに着いた。
店はそう大きくはなかったけど、日常品は大抵揃うみたい。鍋の材料も一通り揃っていた。
ケーキも別にこだわりはないからここで売ってるイチゴショートですませる事にして、俺達は銘々に好きな食材を選び始めた。
「白菜と豆腐とネギと椎茸と、しめじも欲しいよね」
「僕の家ではもやしを入れるけど、どうする?」
「水炊きにもやし? でもそれも美味しそうかも」
ふたりで思いつくままに買い物カゴに食材を放り込んでいくと、結構な量になってしまった。
「これ本当に全部食べられるかな?」
日高はまだマンションで暮らすわけじゃないから、残すわけにはいかないよな。
「残ったら明日の朝にでも食べればいいんじゃない?」
「ああ、そうだね」
そうだった。今日は日高の部屋に泊まるんだ。改めてその事実を確認すると――
ちょっと胸の奥で心臓が跳ね上がったような気がした。
必要な買い物を済ませると、いよいよ日高のマンションへと向かう。
駅前から離れるとすぐに、車通りも少ない住宅地になっている。そんな住宅地の、車がすれ違うのがやっとくらいの細い道を進むと目的地に着いた。駅から真っ直ぐ来れば20分くらいの距離だろうか。
「ここだよ」
日高が立ち止まって見上げたのは、4階建てでクリーム色の外観にベランダ部分には煉瓦のような茶色いタイルが飾り込まれた立派なマンションだった。
小さいながらもちゃんとしたガラス戸が付いた入り口があって、お洒落な外観だ。
1人暮らしの下宿先っていうと、もっと小さな2階建てのアパートみたいなのを想像してた俺はちょっとびっくりした。
「うわー、何か想像してたより立派。4階建てなんだ」
「僕の部屋は2階だけどね。あんまり景色は良くないけど、ベランダもあっていいよ」
いつまでもポケッとマンションを見上げている俺を促すように、日高が入り口の観音開きのガラス戸を開いたんで、俺も慌てて付いていった。
日高の部屋は2階の角部屋の201号室だった。
中に入るとすぐの場所にお風呂、その隣がトイレ。そこを越えるとキッチンダイニングって言うんだろうか? キッチンが付いた8帖ぐらいの部屋と、さらにその奥にもう少し小さな部屋があって1人で暮らすには十二分な広さがあった。
「ええー、日高こんなに広くていい部屋で1人で暮らすの?」
コートを脱ぎながらも落ち着き無くキョロキョロと辺りを見回してしまう。
「叔父の扱ってる物件の中ではここが一番大学から近くて手頃だったから」
「でも家賃が高そうだなぁ」
「そうでもないよ。駅から少しあるし、独身のOLやサラリーマンをターゲットにした作りなのに、近くにコンビニやちょっとした買い物ができる店がないからって若い人があまり入ってくれなかったらしくて、お陰で結構安いんだ」
「ああ、コンビニがないのは寂しいなあ。でも駅前にはスーパーがあったのに」
「ちょっと逆方向に歩かなきゃいけなかったでしょ? 少しのこととは言え毎日だときついんじゃないかな。それにあのスーパーはそんなに遅くまでは営業してないから、時間が不規則な職の人にはコンビニがないと駄目みたい」
そんなものなんだ。下宿なんて端から選択肢になかった俺はそんなことまでは考えたこともなかった。
初めて見る1人暮らし用のマンションに興味津々の俺は、荷物を置くとトイレにお風呂にと部屋の中を見学させて貰った。
奥の部屋にはベッドしか置かれていなかったけど、リビングには新しくて立派なテレビと丸いリビングテーブルが置かれてあった。
「このテレビとかベッドも付いてたの?」
「それは叔父さんから一足早い入学祝いで貰ったんだ」
まだそれほど荷物は運び込んでいないと言っていた割りには、そんな大物の家具が揃っていたので訊いてみたら、ベッドにテレビが入学祝い?
あのテレビなんて液晶で19インチはあるぞ。日高んちもお金持ちそうだけど、叔父さんもお金持ちなんだ。
あれこれ訊ねながら一通り見学をさせて貰うと、もう時刻は6時近くになっていた。
初めての店での買い物であれこれ迷ってた上に、ここに来る道筋もちょっと複雑だったんで、目印になるような看板とか変わった家を覚えながら来たから時間がかかっちゃったんだな。
そろそろ鍋パーティーの用意をしないと。
日高が材料を切ると言うから、俺は日高が先に持ってきておいてくれてたコンロをテーブルの上に出したり、お皿やお箸を並べたりした。
真新しい食器は、これから新生活が始まるって感じで見ているだけでワクワクする。
だけどただ並べるだけの俺はすぐにすることが無くて手持ち無沙汰になって、キッチンの日高の様子を邪魔にならないように後ろからのぞき込んだ。
「そっちの準備は出来た? もうちょっと待ってね」
「日高、包丁使うの上手いね。練習したの?」
テキパキと危うげ無い手つきで包丁で食材を切っていく日高の手さばきに感心する。
「うん。だってちゃんと料理が出来ないと聡はここに来てくれないんだろ?」
「え? そんな。あれはただの冗談で――」
日高の言葉を慌てて否定しようとして、日高の目が悪戯っぽく笑っているのに気付いた。
「何だよ! もう」
「危ないって! 聡。包丁を持ってるときに押さないで」
「ああっ、ごめん!」
ふざけ合いながらも何とか無事に食材を切り終わると、俺達はキッチンからリビングのコンロを置いたテーブルの方に移動する。
材料はやっぱり鍋に溢れんばかりになっちゃったけど、これはこれで美味しそうだ。
後はフタをして火が通るのを待つだけ。
丸いテーブルに隣り合わせで座って、湯気の立ち上る鍋を眺めてるのもいいもんだ。
温かい部屋の中で日高とふたりでぬくぬくマッタリ鍋なんて、生徒会長の日高にただ憧れていた頃からは考えられないや。
あの日、バレンタインにかこつけて日高に好きだって伝えてホントに良かった。
日高もこんな風に俺と過ごすのを楽しいって思ってくれてるかな? 透明なフタ越しに鍋の中をのぞき込んでる日高の方を見ると、俺の視線に気付いたのか日高もこっちを見てにこっと笑ってくれた。
「こんな風にふたりきりで過ごすのって、初めてだね」
「そうだね。でもさ、夏休みにも俺は日高の家に行ったよね」
あの時も初めて日高の家に行けるんで凄くワクワクしたな。
「だけどあの日は家に母さんが居たし、すぐにプールに出掛けちゃったから……あの日の実験、面白かったね」
日高は懐かしそうに言うと、片手を俺の頬に添えて自分の方に引き寄せようとしてきた。
あの日の実験……"水の中で口移しで空気が送れるか?" を再現しようっていうのか? それはいいんだけど――
「……あの、日高」
「何?」
「鍋が大変なことに」
「わっ」
ちょっと目を離した隙に沸騰して隙間からブクブク泡を吹き始めた鍋のフタを日高が慌てて持ち上げ、俺は鍋の火力を落とすと中をのぞき込んだ。
もうもうと立ち上る湯気が収まると、鍋の中の惨状が明らかになる。
「あーあ、豆腐がグズグズになっちゃったな。そう言えば豆腐を掬うヤツがいったよね。あのちっこい、オタマに穴が開いてるようなの」
「うん。滅多に使わないけど、無いと不便だね。取りあえずスプーンで代用しておこう」
そう言うと日高はキッチンの棚からスプーンを取ってきた。1人暮らしって本当に色々と物入りなんだな。
「この辺は100均も無いの?」
「どうだろう……多分無かったと思うけど」
「それも明日探しに行こうよ」
することがどんどん増えていく。だけどそれが面倒じゃなくて凄く楽しい。
「よし! 明日に備えてしっかり食べるぞ!」
「待ってよ、聡。一応君の合格祝いとクリスマスのお祝いなんだから乾杯くらいしてから――」
そうだった。一応お祝いパーティーなんだった。とは言えまだ俺達はお酒は飲めないからジュースだし、何より鍋はもう煮えちゃってるし。
「いいのいいの。今日はお祝いだから無礼講なの!」
ジュースのペットボトルを開けようとする日高からそれを奪い取ると、代わりに日高の取り皿にポン酢を注いだ。
「はい、いただきます!」
「まったくもう……」
そんな俺に日高は呆れながらも箸を手にした。
初めてのことすべてが楽しくってやっぱりハイテンションになってしまった俺は、すっかり煮えた鍋にがっつりと取りかかった。
「あー、お腹いっぱい! もう何にも食べられない」
「うん、僕も」
やっぱり欲張って買いすぎたのか、食べ過ぎてデザートのケーキにたどり着く頃にはもう味が分からないほどお腹が一杯になっていた。
本当に動けないほどお腹が一杯だったから、しばらく明日の予定なんかを話ながらお腹が落ち着くのを待ってから、ふたりで後片付けを始めた。
日高が食器を洗って、俺がそれを拭いて食器棚に戻す。
料理を作って、食べてからもその片付けをして――今までずっと家事は母さんとおばあちゃんに任せっきりだったけど、結構面倒くさいものなんだ。
俺も食器を流しに持って行くくらいはしてたけど、これからはもうちょっと手伝おうなんて思ってしまった。
日高は大学生になったら毎日これをひとりでするのか。1人暮らしなんて羨ましいなんて単純に思ってたけど、大変そうだな。
「どうかした?」
思わず考え込んで手を止めてしまったから、日高に不審がられてしまった。
「あのさ、俺がここに来た日は後片付けとか俺がするよ」
「いいよ、そんなの。聡が来てくれるだけで嬉しいから。それに、今日みたいにふたりで一緒にすればいいじゃない」
「でもさ」
「ふたりがいい。聡と、一緒がいい」
洗い物を終えた日高が給湯器のシャワーを止めて、じっと俺を見つめる。
「そろそろお風呂に入る? お湯を張ってくるよ」
意味深な日高の言葉に俺が何か答える前に、日高は風呂場の方に行ってしまった。
「もう、帰れないよな」
窓の外にはもう夜が広がっている。だけど、まだ電車は走ってる。今ならまだ帰れる。
だけど ――俺は帰らない。