晴れているんだけど、どこかぼんやりと霞んだ空に春を感じる。もうずいぶん暖かくなったけど吹き付ける風は頬に冷たい。
だけど走り終えたばかりの火照った俺の体には、その風はいい感じに心地よかった。
吹きっさらしの夕陽丘運動公園の陸上競技場で、競技を終えた俺はスタンドの観客席を見上げてある人を捜していた。スタンドは競技がよく見えるようにフィールドから1メートルほど高い位置に設けられている。
今日は春休みの日曜日なせいか、生徒や保護者だけじゃなく一般のお客さんも見に来ているらしくて、普段より観客が多い。おまけに競技を見終えてもう帰ろうとする人達の流れのせいで探し人はなかなか見つからない。
確か観客席の中央辺りに居たと思ったのに。
「おかしいなぁ、見間違えたのかな……」
「篠田(しのだ)君!」
観客席と競技場を隔てる手すりの所から呼びかけられて、通り過ぎようとした俺は驚いて立ち止まると振り返った。
お目当ての人物――日高仁史(ひだか ひとし)も客席に向かってきた俺の姿を見て前に移動していたのに、上ばかり見ていた俺は気付かなかったんだ。
「日高! 来てくれてたんだな」
「来るって言っただろ」
そうはいっても春休みとはいえ生徒会長の日高は、新入生のオリエンテーションとか入学式の準備とかで色々忙しいだろうから無理かと思ってたんだ。
「君の格好いいところ、ちゃんと見てたよ」
日高が手すりから身を乗り出してこっちに手のひらを差し出す。俺はその手にハイタッチの要領で手を合わす。パンッと小気味のいい音が響いて、ふたりして笑い合う。
「本番も観に来てくれよな。もっとカッコイイところ見せちゃうから」
「ああ。絶対観に行くよ」
今日は春季陸上大会に向けて、近隣高校との合同予選会だったんだ。
俺は200M走は残念ながら3位だったけど、本命の800Mはぶっちぎりの1位。どっちも十分に予選通過出来るタイムだった。
俺はこれでも我が陽鳳南(ようほうみなみ)高校一のホープ。こんな所で消えるわけにはいかない。
「もうすぐ終わるからさ、日高もこっちに降りて待っててよ。一緒に帰ろう」
「でも、僕は部外者だから」
「制服を着てるから大丈夫だよ」
そう。日高ってば休みの日に自主的に応援に来ただけなのに、きっちり制服と学校指定のコート着用なんだから。
「降り口はどこ?」
「そこから降りればいいじゃん」
俺の提案に日高はちょっと躊躇したようだけど、結局手すりをまたいで乗り越えるとフィールドへと飛び降りて来た。
日高は頭ばっかりじゃなくて運動神経も悪くない。おまけに顔もいいから何しても決まる。着地の瞬間コートの裾がフワッと広がって格好いい! みんなと同じ学校指定のコートなのに何で日高だとこんなに格好良く見えるんだか。
――だけど今日はそれに見とれている場合じゃない。
日高が降りてきたのに気付いた俺の陸上部の仲間が、意味深に目配せしてくる。俺も日高に気付かれないようにそっと頷いて計画実行の合図を送った。
今日は久しぶりにミッションなのである! しかも今回はチームプレイだ。バレンタインの時のような失敗はしないぞ。
俺の頭の中に『スパイ大作戦』のテーマソングが軽快に流れだす。
今回もターゲットは日高。前はあっさり見透かされちゃったけど、今日は協力者が居るから心強い。
The Game is afoot! 俺は気合いを入れてミッションを開始した。
「今日はさ、日高に紹介したい人がいるんだ」
「へえ、誰?」
「俺の彼女」
そう言うと俺は、後ろを振り返って陸上部の仲間の方に声を掛けた。
「山本ー! 彼女、連れてきてくれる?」
向こうから山本が手を振って応えているのが見える。出だしは順調だ。
「……君、今までそんなこと一言も……彼女が居るなんて」
「いやー、恥ずかしいから黙ってたんだ」
やったー、驚いてる驚いてる。俺は内心のほくそ笑みを照れ笑いへと変換して頬に浮かべる。
「でも、今まで一度も会ってるところを見たことがないけど」
「彼女、西高の子だから。彼女も陸上部で前から大会とかで見てて可愛いなーと思ってて、この前の合同練習の時に申し込んでOK貰ったんだ。それで今日、彼女もここに来てるから日高に紹介しようかなって」
「この前っていつ?」
「え? いつって……あー、付き合いだしたの? えっと、去年の暮れ頃……かな?」
色々と出会ったときの事とか彼女の設定も決めてあったんだけど、そこは考えてなかったな。ああ、ドキドキにドギマギする。
「そんなに最近? ……その頃の君にそんな様子は無かったと思うけど」
「その頃はまだ俺達って友達になってなかったじゃん」
「でも、分かるよ。それに最近でも彼女の話なんてしたことなかったじゃない。ずいぶん突然だよね」
「いや、だって話すタイミングとかさぁ……違う学校の子を連れてくるわけにも行かないから」
あんまり色々問い詰められると苦しい。
アルファ・メーデー! ブラヴォーとチャーリー遅れてるぞ、バックアップはどーした! 俺が日高に見えないように体の影でこっそり手で『早くしろ』と合図を送ると、ようやく補助要員のデルタとエコー ――高橋と井上がやって来た。
「よう、日高も篠田の彼女見に来たんだ」
高橋が陽気に日高に話しかける。高橋も俺や日高と同じクラスだから日高とも俺を通じて友達の友達程度のだけど付き合いがあるから結構気さくだ。
だけど井上は、後輩な上に生徒会長としての日高しか知らないから緊張した感じで突っ立ってるだけだった。
エコー撃沈。元々こいつは上がり性で本番に弱いタイプだから期待はしてなかったけど。
「高橋君は知ってたの?」
「うん。まあ俺が告れってアドバイスしてくっつけてやったようなもんだし。篠田ってさー、いざとなると根性あるけど、なんか切っ掛け無いと動けないタイプじゃん? ほら、よーいドン! のピストル鳴らないと走り出さないんだけど、走り出すと速い、みたいなさー」
話に信憑性を付けようと細かく設定を作ってあったんだけど、高橋、お前どーでもいいことしゃべりすぎ。
だけど高橋のおしゃべりで時間が稼げた。やっと実働部隊が到着した!
「お待たせ、連れてきたぞ。珠樹(たまき)ちゃん」
西高のジャケットを着た俺の彼女の珠樹ちゃんは、山本の後ろに隠れて俯いている。目深に被ったフードからは綺麗にカールした茶色の髪がふんわりと流れ出ていて、雰囲気としてはちょっとかわいい系だ。ちなみに珠樹という名前は山本んちの猫のタマキちゃんからお借りした。
「紹介するよ。彼女は――」
「紹介はいいよ。知ってるから」
「え?」
日高はにこやかな笑顔で、彼女を紹介しようとする俺の言葉を遮った。
「えっと、中田君だっけ? 走り幅跳びの予選通過おめでとう」
「めっちゃバレてんじゃん!」
珠樹ちゃん、もとい、中田が大声を上げて顔を上げるとフードと一緒にカツラもずれて、いがぐり頭が飛び出した。
即バレしたことに落胆するよりそのシュールな光景に、思わずみんな笑ってしまう。日高も怒ると言うより苦笑をしている。
「バレるも何も、いくら校風が自由な西校の陸上部員でも、大会にそんな髪型で参加するわけ無いだろ。不自然だよ。せめてマネージャーか応援に来た誰かの妹っていう設定にするべきだったね。それに中田君の足は確かに細いけど、女の子の足には見えないよ」
ああ、またも完膚無きまでにミッション大失敗か。つーか、駄目出しまでされちゃうし。チーム戦でも惨敗とは日高恐るべし!
本当は日高が真面目に俺の彼女に自己紹介をしてくれたところで「実はこいつは男で、陸上部の中田でしたー」とやるはずだったのに。
「あーあ、失敗かー。せっかく西高の従弟からウェアまで借りてきたのにー」
「だから上着より制服のスカートを借りて来いって言っただろ」
今回のミッションの発起人は俺だけど、一番張り切って衣装の準備までしてくれた高橋が愚痴る。ノリノリだった山本も残念がる。
「やだよ。そんなこと頼んだら変態だと思われるだろー」
「俺はねーちゃんのウイッグこっそり持ち出してきたんだ。バレたら殴られるのを覚悟でやったというのに、変態と思われるくらいいいだろ。実際変態だし、高橋は」
「誰が変態だ! 大体、このカツラが敗因だったようなもんじゃん」
「待てよ、オレはスカートなんて履かないぞ! このためにすね毛まで剃ったんだ。これ以上バカな真似ができるか!」
「あの、今回は相手が悪かったって事で。仕方ないですよぅ」
残念がるのはいいけど、中田まで加わって何かただの罵り合いになってきた。巻き込まれただけの井上がなだめようとしてるのが涙を誘う。アホな先輩を持つと大変だな。
……日高のレベルが高いのか、俺らが低レベルなだけなのかちょっと分かんなくなってきたな。
春風に吹かれながら黄昏れてる俺をよそに、罵り合いはまだまだ続く。
「やっぱり彼女役は女の子じゃなきゃ無理だったんだ」
「だからっ、初めからそう言ってただろ。オレが女役ってのは無理がありすぎだって」
「そうだよな。やっぱ背が低くって足が細いってだけじゃ女にゃ見えないよな」
「やっぱり篠田が彼女役すればよかったんだよ。この中で一番足が綺麗なのはお前なんだから」
初めから彼女役を渋っていた中田が、腹いせか妙なことを言い出す。
「ええ? 俺より中田の方が足細いって。っていうか俺が俺の彼女の役って、どうやってするんだよ」
「単に細さの問題じゃなくて、滑らかで視覚的に綺麗なんだよ。篠田君の足って」
今まで呆れていたのか黙って傍観していた日高が、さりげなく和やかな口調で会話に入ってきた。けど、目が笑ってない! 怖い。
全員ピタッと黙り込む。
「どうせ騙そうとするなら、篠田君が女の子の格好をして誘惑してくれた方が良かったかな」
「やだよ、そんなの」
続いてさらに恐ろしいことを言い出すし。怖いよーマジで。
「どうして? それなら騙されてあげたのに」
「そんな分かってて騙されてくれたって楽しくないよな?」
同意を求めてみんなの方を振り返った俺は、そこに誰も居ないのに気付いて愕然となった。
司令官を無視して敵前逃走とはどういうことだ。
『君、もしくは君の仲間が捕らえられ、あるいは死亡したとしても当局は一切関知しない』――頭の中でそんな非情な声が聞こえた気がした。みんなの薄情者!
蜘蛛の子を散らすように逃げ去りやがった奴らの後ろ姿を見送る。
あー、でもみんなさすが陸上部員。逃げ足速いな〜、なんて思わず現実逃避してしまう。戦わなきゃ、現実と。
「あの、あのさー日高……」
俺は恐る恐るうつむき加減のまま上目遣いで日高を見る。怒ってるよなー。
「篠田君。僕は何か君たちの気に障るようなことをしたのかな? みんなで僕を騙そうとするなんてさ」
「あ! そんな、そんなんじゃないよ! ほら、今日はさ、4月1日でさ」
「エイプリルフールだから?」
「うん。そう。それだけだよ」
何だ気付いてたのか。よかった。いや、バレちゃったからよくはないんだけど。
だけどエイプリルフールの悪戯だって分かってるなら、こんなに怒らなくてもよくないか? そりゃあ日高は普段から真面目だから悪戯なんて嫌いなのかも知れないけど、こんな日くらいいいじゃないか。
「だから、エイプリルフールだからって、みんながどうして悪戯の相手を僕にしたのかってことを訊いてるんだけど」
「みんなって……俺が何か日高に悪戯を仕掛けたいって言ったら協力してくれただけで、みんな日高が嫌いな訳じゃないよ」
「そう。それならいいんだけど。君もそろそろみんなの所に行った方がいいよ」
「いや、あのな、本当に俺もみんなも日高が嫌いで騙そうとしたわけじゃないから……だから、そんなに怒んないでくれよ」
あくまでも優しい口調で、だけど俺を突き放そうとする日高に必死で食い下がる。
日高ってば、みんなに嫌われてると思って不安になったのかな? だとしたら結構悪いことをしちゃったかも。これは真剣に謝らないと。
「日高、本当にごめん。ちょっと悪ふざけのつもりだったんだ」
「うん、もう分かったよ。だから早くみんなの所に行きなよ」
「分かったって……俺は、みんなより日高の方が――」
『「コラー! 篠田! 集合だと言っとるのが分からんのかー!」』
突然スピーカーから大音量で名前を呼ばれて、びっくりして思わずつんのめった。何だ?
「だから、先生から集合がかかったからみんな行っちゃったんだよ。閉会式が始まるんじゃない? 君も行かなきゃ駄目だよ」
日高が肩を落として溜息混じりに苦笑いする。
慌てて後ろを振り返ると、生徒達はみんな中央のポール前に集まっていた。
そりゃあ中央の方を向いてる日高には生徒が集合してるのが見えただろうけど、俺は背中を向けてたから見えなかったし言い訳に必死になってたから先生が呼んでる声にも気付かなかったんだ。
「日高! 待っててくれよ! 先に帰んないでくれよな」
俺は振り返って日高に何度も念を押しながら、みんなの待つ中央ポール前に向かって走った。
しかし恥ずかしい……俺は日高に見送られながら、笑い声と冷やかしに迎えられてみんなと合流し、何とか予選会の閉会式を無事に終えた。