俺は陸上部の備品の入ったダンボールを抱えながら、学校に戻るべくバスに乗っていた。
「……ごめんな、日高。こんなことに付き合わせちゃって」
「いいよ。この前のホワイトデーには僕に付き合って貰ったんだから」
本当なら競技会は現地解散なんだけど、閉会式に遅れた罰として俺は先生から備品の後片付けを言い渡されてしまったんだ。
そんな俺に付き合ってくれたのは日高ひとりだけ。ダンボール箱で手一杯な俺の鞄を持って付いてきてくれた。薄情者のチームクルーは俺を見捨てやがったのである。
――みんな日高が怖くて逃げたというのが正解だろうけど。
だけどみんなは"青の館"の方に向かったみたいだから、やっぱり薄情者だよな。
いいなー、俺も行きたかったのに。
"青の館"は夕陽丘運動公園の近くの、大通りから少し脇道にそれた所にある小さな喫茶店だ。本道から離れた目立たない場所にあるから帰りがけに寄っても先生に見つからない、俺達の恰好の打ち上げ会場なのである。
店のおばさんも俺達運動部員が来るのを歓迎してくれて、試合や大会の後なんかはスパゲッティやオムライスを大盛りにサービスしてくれたりする。
今日なら絶対大盛りにして貰えただろうになぁ。
それに、日高も連れて行きたかったのに。横の座席に座っている日高をちらりと盗み見る。
「ん? 何?」
目が合うといつものようににこやかに笑ってくれる。
よかった。もう怒ってないみたいだから、片付けが済んだら"青の館"に行かないか誘ってみよう。そんでもってさっきのお詫びに何か奢っちゃおう。
「あのさ、これが片付いたら何か食べに行かないか? "青の館"っていう美味しいスパゲッティとかある店があるんだ。みんなも行ってるはずだから、俺達も行こうよ」
「僕はいいよ。行きたいなら後からひとりで行ってくれる?」
う、まだ怒ってるっぽい。にこやかにだけどすっぱり拒否られた。
「日高が行かないなら俺も止めとく……」
どうやったらご機嫌を直して貰えるのかなー、と考えてみるけど名案は浮かばない。だけど日高の様子を見る限りでは、もう怒ってない風に見えるんだけどな。って言うか、今はむしろ機嫌が良さそうに見えるのに。
もしかしたらスパゲッティが嫌いとか? なんてグルグルと考えているうちにバスは目的地の学校前のバス停に着いた。
校門をくぐると、備品を仕舞う体育館倉庫に向かう。
体育館倉庫はその名の通り体育館にあるんだけど、体育館の中じゃなくてその下の半地下にある薄暗い倉庫だ。
体育館の入り口脇の鉄の扉を開けて階段を下りると、中は結構広くて運動部や授業で使われる用具が棚や床に並べられている。
天井近くの壁の、地上に出ている僅かの部分に明かり取りの小窓が2つあって、陸上部の備品をしまう棚はそのすぐ下にあるんで、今日みたいに晴れた日には灯りを付けなくてもそこは明るい。両手がふさがってる時は電気を付けずに用事がすませられて楽でいい。
俺は明かりを目指して入り口の電気を付けずに薄暗い倉庫内に入った。日高も俺の後に続く。
「日高、足元に気をつけてな」
「ああ、僕もここには何度か来たことがあるから平気だよ」
僅かな光しか入らない倉庫の中は、ひんやりとしていて少し肌寒い。さっさと終わらせちゃおう。
窓から差し込む薄明かりを頼りに、日高がダンボールから出してくれるストップウォッチやゼッケンを受け取って棚に戻していく。
「ところで篠田君、君本当に彼女いないの?」
「え? いないよ。いたら日高に紹介するって。だけど何か無理っぽいなー彼女作るなんてさ。陸上部なんて目立たないし」
「朝礼の表彰台の常連がよく言うよ。それに篠田君は去年のマラソン大会でも2位だったじゃない。格好良かったよ」
「えーっ、スゴい日高。そんなのいちいち覚えてるんだ。俺なんて自分の順位しか覚えてないのに。あ、1位だったのが佐武先輩だったのは覚えてるか」
「だって君、2位なのに凄く悔しがってたから印象に残ったんだよ。全校生徒の中で2番目なんて凄いことなのに、喜ぶより悔しがるなんて」
そうだ、去年のマラソン大会で俺は惜しくも1位を逃したのである。結構本気で狙ってたのに陸上部の佐武先輩に最後の最後で抜かれてしまったんだ。
「だって、途中まで俺の方が勝ってたんだよ。最後の坂でへばって抜かれちゃって。もうちょっと持久力があったらって思ったら悔しくってさ。だから最近は筋トレも真面目にやってるんだ」
「そう言う前向きで努力家なところが格好いいんだよ、篠田君は」
「だったら、もうちょっとモテてもよさそうなものなんだけどなー」
日高が社交辞令で慰めてくれるけど、現実がこれじゃあね。彼女いない歴=年齢だもんな。
「モテてるじゃない。篠田君のファンは結構居るよ。今日だって客席で君を見て騒いでた女の子達が居たよ」
「それは単に自分の高校の選手を応援してただけだろ」
「バレンタインデーに靴箱にチョコレートも2つ入ってたし」
日高は落ち込んだ俺を何とか慰めようとしてくれてるみたいだけど、そんな嘘を付かれても虚しいだけだ。いや、何かの覚え違いかな?
「日高……それは誰か別の奴と間違えてるよ。残念ながら、俺は友達の彼女から義理チョコ1個貰っただけだよ。それも手渡しだったし。俺の靴箱にチョコなんて――」
「君の靴箱に入っていたチョコレートを、僕が先に見つけて捨てちゃったんだよ」
「え? だって……何で日高がそんなこと?」
意外な告白にびっくりして思わず動きが止まる。わけが分からなくてじっと日高を見ると日高も真っ直ぐ俺を見つめ返す。
「だって、篠田君は僕のことが好きなのに。君は僕の物なのに、バレンタインのチョコレートなんて、駄目だよ。渡させない」
「え? え?」
確かに俺は生徒会長として日々頑張ってる日高が好きで憧れて、バレンタインにかこつけて"好きだ"ってメッセージを付けてチョコを贈ったけど、それはバレンタインの午後の話で、日高の言う俺の靴箱にチョコが入ってたっていうのはどう考えても朝の話で……? あれ? 順番がおかしくないか?
これじゃあまるで日高の方が先に俺を好きだったみたいじゃないか。
「競技場で僕が怒ったのはね、みんなが僕から君を引き離そうとしてるのかと思って、だからなんだ。そんなことさせない。君を誰にも渡さない」
日高は今まで見たこと無いくらい真剣な表情。だけど俺は吹き出してしまう。
だって――
「あははははっ、あっぶない、危ない。危うく引っかかるところだったー。さっきのエイプリルフールの仕返しだな」
思い切り引っかかりそうになった自分がおかしくて笑ってしまったけど、日高は真剣な表情を崩さない。それどころかますます表情は険しくなる。
「エイプリルフールだからって、言って良い嘘と悪い嘘があると思うよ。あくまでも罪のない嘘が許される日だ。どうしてあんな嘘を付いたの?」
日高の勢いに呑まれて俺は笑うのを止めた。なおも俺に迫ってくる日高に押されて後ずさると、壁の棚に背中が当たる。日高はその棚に両手をついて、俺が逃げられないように挟み込んだ。
「付き合ってる人がいるなんて、酷い嘘をどうして?」
「だって、だって日高は好きな人がいるとか言っておいて俺にはその子のことを教えてくれないし……だから……俺はさ、日高の友達じゃないのか?」
好きな女の子の名前も教えて貰えないほど、信用してくれてないのか? そう思ったら、ちょっとしたそれ系の意地悪をしたくなっちゃったんだ。
「君は友達なんかじゃない」
「え?」
冷静に言い放つ日高の言葉に愕然とする。それじゃあ今まで一緒に弁当を食べたりゲーセンに行ったりしてたのは何でなんだよ。
色々と言いたいのに言葉が出ない。
何も言えずに日高を見つめる俺の頬に、日高の手が触れる。唇が唇に触れてくる。俺も逃げることも拒むことも出来なくてただ立ちすくむ。
ああ、俺日高とキスしてるんだ。なんて頭の中は他人事を見てるみたいに冷静だった。いや、他人のキスシーン見たってこんなに冷静じゃいられないよな。
頭の中がフリーズ状態で何も行動が起こせないんだ。
柔らかい感触が唇に当たって、それが俺の唇を挟み込むように甘噛みしてる。
たったそれだけのことで体の芯から熱くなってくる。それなのに、さらに口の中に滑った日高の舌が入ってきて一気に全身が熱くなる。
「んっ、う……んんっ」
俺はここに来てようやく頭の回線が繋がったのか、引きはがそうと抵抗を試みたけど遅すぎた。左手は押さえつけられちゃってるし、がっちり頬を掴まれてるから顔を逸らすことすら出来ない。残った右手で日高の肩を押したり髪を引っ張ったりするけど離れてくれない。
俺と日高って体格は互角だけど力なら運動系で鍛えてる俺の方が強いはずなのに、全身で押さえつけられてるから上手く身動きできない。
塞がれてるのは口だけなのに息が苦しいし、心臓がバクバクいってて胸も苦しい。
苦しくて苦しくて、もう俺を押さえつけてる日高にすがらないと立っていられなくなるくらいになって、ようやく解放された。
今までみたいにチョコレートもキャンディーも、何の口実もない本当のキス。
「友達に、こんなことしない」
日高も苦しかったのか、ちょっと息が上がってる。
「僕が好きなのは君だけだ」
「日高……えっと、その……嘘、だろ?」
今日は4月1日で、エイプリルフールで――
「君が嘘にしたいなら、嘘でいいよ」
さっきまでの熱が嘘みたいに、冷たく言い放って日高は俺に背を向けて扉に向かって歩き出す。
「日高、待ってくれよ」
呼びかけに振り返りもしない。
「日高!」
俺も付いていこうとするんだけど、情けなくも足がガクガクして棚に寄りかかってないとまともに立ってもいられない。何とか棚から背中を引きはがして、足を一歩前に踏み出したけどそのまま座り込んでしまう。
駄目だ、このままじゃ日高が行っちゃう。
「日高! コンタクトレンズ落とした!」
「――え?」
意外な言葉に驚いたのか、もう階段を上がりかけていた日高が足を止めてこっちを振り返ってくれた。
「暗くて見えないから電気付けて」
俺の言葉に日高がスイッチを入れてくれたのか、天井の蛍光灯が瞬いて部屋が明るくなった。俺は床に這いつくばって目をこらす。その様を見かねたのか日高もこっちに戻ってきてしゃがみ込んで一緒に探し出した。
「君、コンタクトなんてしてたの?」
「最近視力が落ちてさ。この春休みに付け始めたばっかり。だから慣れてなくて……」
「今落としたの?」
「うん。だからこの辺りにあると思うんだけど」
床に視線を集中させながら、日高が少しずつこっちに近づいてくる。
「あった!」
「どこ? ――っ!」
俺の叫び声に顔を上げた日高に、顔からぶつかるみたいにキスをした。っていうか、ホントにぶつかった。唇に日高の歯が当たっちゃって痛かったけど、それは日高も同じみたいで唇を押さえて呆然としている。
「ご、ごめん。ちょっと勢いつきすぎちゃった。痛かった?」
「あ……いや……その、大丈夫」
自分の唇に指先を当てて、本当に呆然といった感じで目を見開いてる。こんな日高は始めて見た。
何だか可愛い。
「俺は、日高なんて大嫌いだ。世界で一番大嫌いだ」
日高がじっと俺を見つめる。驚いてるような……ちょっと泣きそうにも見えるその表情の意味が読み取れなくて、不安になる。
「あの……あのさぁ、今日はエイプリルフールなんだからな?」
嘘だから、逆さまの意味なんだからな。確認するように日高の顔をのぞき込みながら言う。
「コンタクトも嘘?」
「うん。……怒った?」
恐る恐る問いかける俺に、日高は軽く笑いながら首を横に振った。
「本当に君にはまったく勝てる気がしないよ」
「? 勝ち負けの話じゃなくてさー、あ、エイプリルフールの話? どっちが騙されたかってこと?」
「もういいんだよ」
「いいって、もう……怒ってないってことか?」
「怒ってないよ」
顔を上げて俺を見つめながら笑う。いつもの笑顔。俺の好きな日高だ。
「じゃあさ、じゃ、今からでいいから"青の館"行こうよ。日高も絶対気に入るって! もうみんなは帰ってるかもしれないけど、一緒に行こう」
学校からじゃちょっと遠いけど、だけど行きたい。日高と一緒に。
「行ってもいいかな……みんなが帰ってるなら」
「ホント? あそこはさ、ミートスパゲッティが美味しいんだ。日高も絶対気に入るって。あ、でも別々の物をとって半分こにするのもいいよな」
俺は逃げられないようにがっちり日高の腕を捕る。気が変わられちゃ大変だ。
「なぁ、早く行こうよ。俺お腹空いた」
「分かった、行こう」
俺に腕を引かれて日高も立ち上がる。
俺達は倉庫の狭い階段もくっつきながら2人列んで上った。