もう梅雨入り宣言が出てもいいんじゃないかと思うくらい、最近は毎日のように雨続き。
俺は今日も朝から飽きもせず雨を降らせ続けてるどんよりした雨雲を見上げてふて腐れていた。
雨が降ると外での陸上部の活動が出来なくて、多目的ホールや校舎の廊下を使った腹筋とかの基礎体力作りが中心になるから単調で退屈なんだよね。
おまけに今日は、2年生の保護者向けの進路説明会に多目的ホールが使われる上に廊下での部活動も禁止って事で、部活自体がお休みになってしまった。
「こんにちはー、今いい?」
そんなこんなで放課後の予定ががら空きになった俺は、すっかり馴染みになってしまった生徒会室に顔を出した。
「いらっしゃい。やっぱり今日は部活はお休みになっちゃったんだね」
「うん。だいぶ小降りになったけど止みそうにないから」
いつものようにこの部屋の主、生徒会長の日高がにこやかに俺を迎えてくれる。
2年の時に同じクラスになって仲良くなった日高と俺は、3年になってクラスが別れてしまったんだけど、こうして生徒会室で昼休みや放課後に会っていた。
「何か極秘会議中? だったら帰るけど」
日高は普段通りな感じだけど、周りの雰囲気がちょっと変。
普段の会議ならみんな普通に席に着いているんだけど、今日は書記の木下や小谷さんが日高を取り囲むように集まっている。他に見慣れない顔もいるけど誰だろう?
とにかく何か秘密の会議中なら部外者の俺は邪魔にならないようにと部屋を出ようとしたんだけど、木下に腕を掴まれて引き戻された。
「篠田さん、いいところに来てくれた! 篠田さんからも会長に立候補するように言って下さいよ」
「ん? 立候補?」
「次の生徒会役員選挙ですよ」
「ああ、もうそんな時期なんだ」
そうだ、うちの学校は6月の生徒総会で生徒会役員を決める選挙を行うんだよね。
生徒会は会長1名と男子副会長に女子副会長が各1名ずつ。それから書記と会計もそれぞれ2名で、計7名で運営される。
今は3年生だった女子副会長の前川さんと会計の長谷川さんが卒業して5名だけど。
いつまでもそんな歯抜け状態ではいられないんで、1年生も学校生活に慣れてきた6月の初めに役員選挙が行われるから、もう立候補者は選挙管理委員会に届けを出し始めたんだ。
日高は誰も会長に立候補しなければ出てもいいと言っていたけど、この様子じゃ立候補者が出たんで日高は選挙に出ないつもりなんだな。
「いいじゃん。別に立候補者が出たならそいつにやらせればさ」
「だって、会長に立候補したのは1年生なんですよ! しかも今のところそいつだけ。このままじゃ不戦勝でそいつに決まっちゃうよ」
「それが気に入らないなら、木下君が会長に立候補し直せばいいって言ってるだろう」
木下はさも大事のように言ったが、日高はさらりと受け流す。
日高の正論に俺も頷く。
「そうだよな。1年生が会長になるのが気に入らないなら、木下がなればいいじゃん」
木下は現書記だし2年生だし、普通に考えれば木下の方が断然有利だ。だけど木下は力一杯首を横に振る。
「日高先輩の後なんて、先輩と比べられて文句を付けられるに決まってるから嫌です。それに日高先輩が会長だと思ったから安心して副会長に立候補したのに」
なんだよこいつ。会長の補佐をするのが副会長の役目なのに、日高におんぶに抱っこで任せきって肩書きだけ頂くつもりか? 何を考えてるんだか。
「1年生が会長で木下君が男子副会長なんて最悪。こんなんじゃ女子副会長が1人で頑張らなきゃならなくなるじゃない。私も日高先輩が立候補しないなら副会長の立候補は取り消して、また書記になるか、役員を降ります」
女子副会長に立候補するつもりだったらしい書記の古谷さんもこの事態が気に入らないらしく、いらだたしげに胸の前で組んだ腕を指でトントンと叩いていた。まあ木下がこんな態度じゃ心配だよな。
他の書記や会計の役員はどうするかまだ決めかねているのか、不安げに黙って成り行きを見守っている感じ。
「分かった。考えておくよ」
日高はその微妙な雰囲気にうんざりしたように言うと、解散とでもいうように両手を開いた。
それを合図に行き詰まってたらしい話し合いは終わり、みんなちりぢりに解散して生徒会室を後にし始める。
「応募の締め切りは明後日ですからね! 忘れずに選管に候補届けを出して下さいよ」
帰り際に扉の前で念を押すように言う木下を、日高は黙って手を振って見送った。
木下は見慣れない生徒達と何やら話ながら一緒に出て行く。彼らは選挙管理委員会の生徒だったらしい。
生徒会選挙って今まで投票に参加する以外は端から見てるだけだったけど、思ったより大変なんだな。
みんなが退室して急に静かになった生徒会室で、俺とふたりきりになった日高は机に両肘を付いて指を組み、その上に顎をのっけて軽く息をついた。
「お疲れ、日高」
何だかずいぶん疲れたみたいな日高の横に立って、俺は日高の頭をくしゃくしゃ撫でてねぎらった。
日高のサラサラの髪は指通りがよくって気持ちいい。日高も撫でられて気持ちいいのか、されるがままで目を閉じる。
「別にもう1年会長を続けてもいいと思ってたけど、あんな風に押しつけられたり、誰かの代わりにやらされるのかと思うとすっきりしないね」
日高はうんざりしたように言うけど、それだけ日高のこれまでの会長としての活動が認められてて頼りにされてるんだと思うと、俺としてはちょっと嬉しかった。
「でもさ、みんな日高が頼りがいがあるから頼ってくるんじゃない? 無理じゃないなら立候補すれば? 俺も出来るだけ手伝うからさ」
「君も僕に会長に立候補しろって言うの? 僕に1年生の代わりになれって」
日高は何だかちょっと意外なように俺を見上げた。
「そんなわけじゃないよ。代わりなんかじゃない。立派な会長だった日高が辞めちゃうのをみんなも俺も惜しんでるだけだよ」
「ねえ、ちょっと訊きたいんだけど」
「何?」
「篠田君は僕が生徒会長だから好きになってくれたわけじゃないよね? 会長を辞めたら、嫌いになったりする?」
「え?」
突然変なことを言われて面食らう。別に会長だろうと無かろうと日高は日高だ。
だけど好きになった切っ掛けは、いつも先頭に立ってテキパキと会長の仕事をこなしている日高の格好いい姿に感心したからなんだよね。
何だかちょっと不安げに俺を見上げる日高に、それを素直に伝える。
「日高が生徒会長をやめたからって嫌いになんてなるわけない。そんなのどうでもいいけど、でも、生徒会長として頑張ってる日高は格好いいと思うよ」
「そう」
俺の答えを聞いた日高は安心したように微笑むと、木下が用意してきたらしい立候補用紙の会長候補の欄に自分の名前を記入した。
そんな騒動のあった次の日。
ぐずついた天気が続いてたけど、今日は久しぶりに朝から太陽が顔を出した。
雨上がりの晴れた空は清々しくていいんだけど、水たまりの残る地面の方はドロドロのジケジケで整備するだけでも大変だった。うちの学校のグラウンドには、雨でも大丈夫なタータンのトラックなんていい物はない。
そんなわけで久しぶりの外での部活で思いっきり走れたのは嬉しいんだけど、足どころかシャツにまで泥が跳ね上がっちゃって泥まみれ。
俺達陸上部員はみんな練習が終わると、跳ね上がった泥をグラウンドの隅の洗い場で洗わなきゃとてもじゃないけどそのままじゃ帰れない状態になっていた。
「うーっ、冷たいっ!」
「お前、靴履いたまま洗ってんのかよ」
「もう中まで水がしみてるからどーでもいいんだよ」
なんてブーたれながらも、みんな久しぶりの外での練習が楽しかったのか笑顔でグラウンドを後にする。
上下関係にさほど厳しくないうちの陸上部でも、やっぱりこんな時は1年生が一番最後。
蛇口や流しの部分に付いた泥なんかを流してきれいにするのも1年生の役目。
今週の1年生の監督を担当していた俺は、1年生がきっちりとその仕事を果たしたのを確認して最後に洗い場を離れようとした。
「篠田君、まだ泥が付いてるよ」
「え、どこ?」
「右足の太ももの裏」
突然の指摘に洗い場をチェックし直そうと振り返った俺に修正が入る。汚れてたのは洗い場じゃなくて俺ね。
俺は声をかけてきた日高の指差した場所の泥をタオルで拭った。
「取れた?」
「うん。久しぶりの練習で張り切ってたね。2階の廊下から見てたよ」
日高は競技会だけじゃなくて、練習もよく見に来てくれる。日高はよっぽど陸上競技が好きらしい。
もし日高が生徒会に入ってなければ、陸上部に入部してたのかな? だとしたら同じ部員としてもっと一緒にいられたりとかしたんだろうか。なんてふと思った。
「日高はよく練習を見に来てくれるけど、日高も陸上が好きなの?」
「うーん、好きは好きだけど、僕はスポーツは全体的にするより観戦する方が好きだな。それに何より僕は、篠田君が走ってるところを見るのが好きなんだ」
「え、俺? 何で? 俺のフォームってそんなに変?」
「ううん。変じゃなくて、凄いなと思って。それにとっても気持ちよさそうに走ってるから見てる方も気分がよくなる。だから、僕は君の走ってる姿が好きなんだよ」
日高は事も無げに「好き」って言葉を口にする。嬉しいけど、言われ慣れてないから照れる。
だけど、俺から日高に好きだって言ったことはないんだよな。
バレンタインにメッセージカードに好きだとは書いたし、エイプリルフールにもそれらしいことは言ったけど、直接「好きだ」って言ったことはないよな。
よし、今日は言ってみよう。俺も生徒会の仕事を頑張ってる日高が好きだって!
気合いを入れてさあ言おう! と大きく息を吸い込んだとたん――
「日高先輩」
後ろから日高を呼ぶ声に驚いて、俺はそのまま固まってしまった。
日高は声の方に視線を移していて、妙に不自然なポーズで固まった俺に気付かれなくってよかった。
俺もため込んだ息を吐いて、後ろを振り返る。
声をかけてきたのは、俺より背が高い見慣れない生徒。上履きの色を見ると緑色――1年生だった。
うちの学校は学年によって上履きの色が違う。2年生は黄色で、俺達3年生は青色。
その1年生は俺達の前に立つと軽く会釈して自己紹介をしてきた。
「会長に立候補した1−Aの西森直也(にしもり なおや)です。さっき掲示板に張り出された役員立候補者名簿を見たんですけど、やっぱり会長に立候補されたんですね、日高先輩」
その言葉に、俺は目を見開いてまじまじとそいつを見た。こいつが話題の1年生会長候補か! 堂々と宣戦布告に来るとはいい度胸じゃないか。
俺はこういう無謀なチャレンジャーは嫌いじゃない。でも今回は相手が悪かったぞ1年生。と、俺は余裕たっぷりで見ていたんだけど、どうもこいつはただの自意識過剰の身の程知らずでは無いらしい。
「君の噂は聞いてるよ、西森君。北美中学を首席で卒業したんだってね」
「へぇ、あそこってレベル高いんだよね。うちよりもっとランクが上の高校にも行けただろうに」
この西森があの進学校で名高い北美中を首席で卒業ってのと、それを知ってる日高とに俺は二度びっくりした。
「本当は正城高校に行きたかったんだけど、正城の受験の日に風邪から肺炎を起こして39度の熱でフラフラの状態で試験を受けたらさすがの俺も不合格でした。それで仕方なく格下のこの陽鳳南高校に来たんです。だからせめて生徒会長にでもならないと格好が付かない」
平然と言ってのける西森の、その失礼な言いようにムッとした。
うちの学校だって正城よりは落ちるけどそこそこのレベルだし、何より生徒会長はただの箔付けの道具じゃない。生徒の代表として意見をまとめたり学校行事を取り仕切ったり、みんなのためになる大事な仕事だ。
日高はずっとそうしてきた。
それをバカにされたようで、食って掛かろうとした俺の肩に手を置いて日高が止める。
「どんな理由で立候補するのも自由だよ。それに誰を選ぶか決めるのは全校生徒だ。ここで言い合いをしても仕方がないよ」
「さすが人格者だね、日高先輩。別に挑発に来たわけじゃない。ただ挨拶に来ただけ。お互いに頑張りましょ、日高先輩」
そう言うと西森は、握手を求めて日高に向かって手を差し出した。
あくまでも上から目線の話っぷりに俺は怒髪天って感じだったんだけど、日高は気にする風もなく西森と握手した。
「じゃあ日高先輩、また。篠田先輩も」
西森は日高と、ついでに俺にも別れを告げて校舎の方へと去っていった。
くそう、何であいつが俺の名前まで知ってるんだ。どうでもいいことまでムカつく。
「日高、あんな奴に負けるなよ!」
「負ける? 僕が?」
意気込む俺に向かって、日高は余裕の表情でにっこり微笑んだ。
――頼もしいぜ日高。