Aug In The Water -3-

 日高の咳が治まった頃には、俺達と同じ50mプールで泳いでいた大学生のグループも泳いでいたおじさん達もプールから上がっていて、広い50mプールの中は俺と日高のふたりだけになっていた。
 プールの端にある大きな時計を見上げると、時刻は閉園15分前の4時45分。スピーカーからはいつの間にか閉園時間を告げる"蛍の光"が流れている。俺達もそろそろ帰らないと。
 日高も音楽にに気付いたのか、顔を上げて時計を見た。
「そろそろ戻ろうか」
「うん。本当に大丈夫か? 日高」
 日高を気遣いながら水から上がると、プールサイドの柵に掛けてたタオルを取ってロッカーに戻って荷物を出して更衣室に向かった。
 さすがに水着を脱ぐのまでロッカーの前でってわけにはいかない。何より更衣室はもうがら空きだし、シャワーも浴びたい。
 更衣室に入ると、入り口付近で俺に負けず劣らずのハイテンションな中学生か小学生くらいのグループがはしゃいでいたんで、俺達は距離を取ることにして奥に向かった。

 ここの更衣室は個別のシャワースペースと着替えるスペースが通路を挟んで向かい合わせに並んでる。
 だからまず濡れないように着替えスペースに荷物をおいて、それからシャワーを浴びなきゃいけない。移動がめんどくさいけど、そうしないと荷物が濡れちゃうから仕方ない。効率が悪い設計だと思うけど、このプールは随分前にオープンした古いプールだからかな。
 まあそれは仕方ないにしても、これは整備の問題だろ。と、思う不備もある。
「ああ、もう。ここ、シャワーが出ないよ」
 俺が入ったシャワースペースはシャワーが壊れていて、ちゃんとお湯が出なかった。ホースとシャワーとのつなぎ目からお湯が漏れてシャワーの勢いが全然無くて、ちょろちょろとしか出ないからまともに浴びられない。
 ここってロッカーの鍵が壊れて閉まらなかったり、こういう小さな不備がちょこちょこあるんだよね。
「こっちは大丈夫だよ?」
 ブーたれながらシャワースペースから出てきた俺に、日高が扉を開けて声を掛けてきた。
「向こうのシャワーを試してみるよ」
「ここで一緒に浴びようよ」
 日高は自分の後を使えと言うつもりだと思った俺は、もう1つ奥のシャワーに行こうとしたんだけど、腕を掴まれて日高のシャワースペースに引っ張り込まれた。
「え? でも、別に今は混雑してないし、いっぱい空いてるのに」
「いいじゃない一緒で。……嫌?」
「嫌って言うか、ちょっと狭いよ?」
「こうすれば平気だよ」
 そう言って日高は俺を抱き寄せて扉を閉めてしまった。確かにくっついてればふたりで浴びられなくはないけど、やっぱり狭い。
 でもさっきは俺の我が侭でひどい目にあわせてしまったから逆らえない。俺は大人しく日高とふたりでシャワーを浴びることにした。
「気持ちいいね」
「うん。ちょっと狭いけど」
 冷えて泳ぎ疲れて冷えた体に、シャワーのお湯が気持ちいい。
 はじめは普通に一緒に浴びてたんだけど、日高の手がだんだん俺の体を伝って流れていく湯を追うように滑っていく。
 狭いからくっついてきてるだけじゃないみたい。
 肩胛骨から腰の辺りまで来たところでくすぐったくなって引き離そうとしたんだけど、日高は腕に力を込めて離してくれない。
「んっ……日高っ。ちょっと、くすぐったいって」
「君は本当にくすぐったがり屋だね」
「だって、くすぐったっ……」
 身をよじって首をすくめて笑う俺の顔に手を添えて仰向かせると、日高は突然キスしてきた。
 壁の方に押されて背中が冷たい壁のタイルに触れる。日高の背中に当たるシャワーのお湯が小さく跳ねてしぶきが掛かる。
 だけどそんなことはすぐに感じなくなって、日高しか感じなくなる。
 そっと触れてきた日高の唇が俺の下唇を甘噛みすると、今度は顔を傾けて深く合わせてくる。さっきの実験もこれくらいしっかり唇を合わせてれば上手くいったかも、なんて懲りないことを考える。そうしないと、他のことを考えないとおかしくなってしまいそうだったから。
 日高のことしか考えられなくなってしまう。それが悪いことだとは思わないけど、ちょっと怖かった。

「う、ん……」
 息苦しいのとはまた違う胸の苦しさに、日高の腕に添えていた手を強く握るとようやく日高は離れてくれた。
 俺の頬に添えてた手の親指で、名残惜しそうに俺の唇をなぞる。
「ちゃんとキスしたのは、久しぶりだね」
「会うのも久しぶりだもん」
 未だに何だか照れくさいけど、日高とキスするのはやっぱり好きだ。
 キスなんて他の人とはしたことがないから日高が上手いのかどうかなんて分からないけど、とにかく気持ちいい。さっき感じた胸の苦しさも、今はまるで走り終えた後みたいな心地いい怠さに変わっていた。
 それに何よりキスすると、日高が距離だけじゃなくてすごく近くに感じられるから好きだ。
 だけど最近はちっとも出来なくて寂しかった。
「ごめんね。長いこと会えなくて」
 会えなかった間のことを思い出した俺の様子に気付いたのか、日高は俺の肩におでこをつけてまた謝ってくる。日高が悪いわけじゃないのは分かってるから責めるつもりなんて無いのに。
「いいんだったら。日高は忙しかったんだから、仕方が無いじゃないか」
「……わざと忙しくしてたんだ。君に会わずにすむ口実を自分で作ってた」
「え? それ、それって、何で?」
 それって俺に会いたくなくて、俺を避けてたって事か? 俺、何か日高の気に障るようなことか怒らせるようなことしたっけ? と頭がパニクってしまう。
「君のせいじゃないんだ。君が嫌いで会いたくなかったんじゃない」
 そんな俺の考えを察知して、顔を上げた日高は首を振ってそれを否定する。
「君に会いたかった。だけど会ったらキスしたくなっちゃうから」
「すればいいじゃない」
 嫌われたわけじゃなかったんだ。ホッとすると同時に、だったらどうしてなのか謎が深まってしまった。
 キスするのは照れは出るけど嫌じゃない。それはちゃんと日高にも通じてると思ってたんだけど……
 悩む俺に、日高も困ったような顔をして俺を見つめる。
「だって、また強引なことをして泣かれたらって思ったら……君に嫌われたらと思うと、どうしたらいいのか分からなくなる」
「ま、また泣くって、俺がいつ泣いたって……」
「七夕の夜に。……君の泣き顔はもう二度と見たくなかったのに、僕が君を泣かせるなんて」
「あ、あ、あれはっ! 違う! ……あの日は暑かったから、その、汗かいて……汗が流れてきたから拭っただけで、泣いてなんかない! それに、二度とって……? それいつの話?」
 やっぱり見られてたのか。暗かったし一瞬だったからバレてないかと思ってたのに。
 でも証拠なんて無いんだからごまかせるよな。それに日高も二度目だとか何だかとんちんかんなことを言ってるから言いくるめられそう。俺は断じて人前で泣くタイプじゃない。七夕の日はともかく、二度って言うのはおかしい。日高は何か勘違いをしてる。俺は必死に言い訳をして否定した。
「そうなの?」
「そうなの!」
 七夕の日、日高に強引にキスされた。あの時、日高がどうして怒ってるのか、日高が何を考えているのか分からなかったのと、抵抗できなくて悔しいのとが一気に来ちゃって混乱しちゃったんだ。
 日高が好きだ。好きだから、好きなのに日高のことが分からなくって泣けた。
 だけどそれが上手く言葉に出来なくて、泣いてないって言い通すしかなかった。
 それに第一、泣いたなんて恥ずかしいから知られたくないし。
「じゃあ、これからもキスしていい?」
「……うん」
「キス、だけ?」
「え?」
「ううん、いいんだ。まだ待てるから。じゃあそろそろ着替えようか。更衣室が閉まっちゃうよ」
 日高はシャワーを止めると、さっさと自分の着替えを置いたスペースに入っていってしまった。
 日高が何を言いかけたのか気になったけど、日高を追いかけて通路に出ると、入り口近くにいた騒がしい子達ももう居なくて俺達だけになってるのに気付いた。これは早く着替えないと本当に更衣室を閉められちゃうな。俺は質問を諦めて自分のスペースに着替えに入った。


 着替え終わって更衣室を出ると、もう5時をとっくに回っていてロッカーの辺りでは掃除が始まっていた。
 俺達は邪魔にならないようにと足早にゲートから外へ出た。
 プールは5時までだけど運動公園全体の閉園時間は6時だから、まだ遠くの芝生の広場辺りには人がいるのが見える。でもこの辺りにはもう誰もいない。
 プールの前は噴水があってちょっとした広場みたいになってる。その広々とした場所を日高とふたりきりでバス停に向かって歩く。
 まだ明るいけど夕暮れの気配を感じさせる空を見上げると、時間にすればたいした時間は居なかったはずのに何だかたっぷり遊んだ気になった。
 楽しかったし充実していたせいかな。
 気になっていた実験も出来たし、久しぶりに日高とキスも出来たし。
「ねえ、明日もまた来ようよ。僕は明日も塾があるけど午前中だけで、午後からなら時間があるから」
「あ……明日はちょっと」
 俺に振り回された割りには日高も楽しいと思ってくれたらしくて、また誘ってくれたのは嬉しいんだけど明日は駄目だ。断る俺に日高は当然理由を聞いてくる。
「ちょっと、何?」
 にっこりと優しく、でもごまかしは許さないという気配を漂わせてる。本当のこと言わないと怒られそうだけど、本当のことを言っても怒られるのが目に見えてるから言いにくい。言いよどむ俺に日高の方から言ってきた。
「西森との約束の方が大事?」
「あ、何だ。知ってたんだ」
「ふーん。やっぱりあいつか」
 俺の返答に、日高は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。俺は見事に誘導尋問に引っかかっちゃったらしい。
 西森の塾の夏期合宿が今日までだから、明日一緒にプールに行こうと誘われてたんだよね。
 俺はプールが好きだし、それに俺が普段見られない生徒会の会議中だとかの日高の様子を聞かせてくれるって言うから喜んでOKしたんだ。
 そんな話をしてもらうのに、日高本人を誘うわけにはいかないから西森とふたりだけの秘密にしてたのにバレちゃったか。
「で? どこに行く予定なの?」
「あの、ここ。プールに行こうって約束したんだ。だから今日はどうしても日高とプールに来たかったんだ。初泳ぎは日高としたかったから」
 怒られるかと思ったけど、日高は俺の答えに呆れた様子で苦笑いすると溜息をついた。
「君には本当に参るよ。そんな風に言われたんじゃ怒れないじゃないか」
「怒らないの? 仲間はずれにしたのに……」
「いいよ。どうせあいつの事だから、こっそり僕の話をしてやるとか上手いことを言って君を誘ったんだろ」
 誘い文句まで見透かすとは、さすが日高。
 何もかもお見通しの日高は怒りはしなかったけど、しっかり注意はしてきた。
「約束をしちゃったんなら仕方がないけど、西森とはあの実験をしちゃ駄目だよ。着替えもちゃんと更衣室ですること。それからシャワールームにも一緒に入っちゃ駄目だからね」
 日高にこんなことを指示される筋合いはないんだけど、日高も普段友達と出かけるときはお母さんにこんな風に注意を受けるからつい言っちゃうのかもと思うと、何だか可愛いから許せるんで素直に頷く。
「うん。分かった」
「それから、もう一つ。ちょっとごめん」
 大人しく了承した俺ににっこり微笑むと、日高は辺りを見回して誰も居ないのを確認して、腰をちょっと屈めて俺の首筋に吸い付いてきた。
「ひ、日高?」
 軽く音を立てながら首筋というか鎖骨の辺りの同じ部分を執拗に吸ってくる。時々チュッと軽く出る音が鎖骨に響くみたいに聞こえて、くすぐったいというか背中がぞくぞくする。
 けど痛いわけじゃないから押しのけるのも気が引ける。ただ日高の肩を軽く押すことしかできない。
「ちょっと、日高っ」
「ん……こんな物かな。ごめんね、痛かった?」
「痛くはなかったけど……」
 何だったんだろう? 俺ってば首を虫にでも刺されてたのかな? 首をひねる俺に日高は満足げに微笑んだ。
「君は分からなくていいの。 ――だけど西森にはちゃんと分からせておかないとね」
「分からせるって、何を?」
「いいの」
「何だよ。日高のケチ」
 いいよ。明日、西森に訊くから。むくれる俺に、日高はチラッと視線を送る。
「西森に訊いても無駄だよ」
 すっかり見透かされた俺は思わず立ち止まってしまう。図星を指されて何も言えない。
「ほら、聡。早く行こう。そろそろバスの時間だよ」
 そんな俺を、日高は笑いながら振り返る。
 日高には何でも見透かされてる気がする。悔しいんだけど、でも何だかそれが嬉しいような気もする。

 俺は顔だけ不機嫌そうにしながら、だけど内心ご機嫌で日高の隣まで走っていった。

(up: 10.Sep.2007)

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