Sep The wind rises −2−

 家庭科室は、昇降口から入ってすぐのグラウンド寄りの西棟の端にある。
 窓からフェンスを超えてグラウンドの歓声は聞こえてくるけど、ここなら誰もいないから落ち着いて休めそうだ。
「ほら、ここに腰を掛けてからゆっくり足を上げて」
 患部を心臓より高い位置に持ってくる拳上をしながらアイシングを繰り返せば、これ以上炎症が広がるのを防げるはず。今はとにかく炎症が治まるように安静に。医者に行くのはそれからの方がいい。
 俺は机の上に西森を寝かすと、救護テントから借りてきたタオルを2枚重ねて丸めて膝の裏において軽く足を上げさせた。
「これで痛くないか?」
「はい、大丈夫です」
「もうちょっとしたらまた冷やすから、少し寒くなるかもな。保健室に行って毛布を借りてきてやろうか?」
 一部分でも冷やし続けると身体全体が冷えてくる。熱気がある外のテントと違って、日が差さなくて涼しいこの家庭科室じゃあ寒くなるかもしれない。
 訊ねる俺に、大人しく横になった西森はまたむっくり起き上がった。
「俺が取ってきてやるから、お前は大人しく寝てろ」
「優しいですね、篠田先輩は。……やっぱりいいなぁ」
「駄目だろ。ちゃんと横にならないと」
 起き上がった西森を寝かしつけようと肩に手を掛けると、西森は俺の顎を持ち上げて首筋を見てるみたいだった。
「何だ? 首がどうかなってる?」
「もう消えてますね」
 もうってどういう事だろう? さっきまで何か付いてたのかな?
 そう言えば、夏休みにも日高に首にキスマークなんてつけられたし。俺の首はいったい何なんだ? 悩む俺に西森はさらに謎なことを言ってくる。
「あんなあからさまな所有印を見せつけてくるって事は、逆にまだ完全に自分の物にしたって自信がないって事の表れですよね。まだ俺にもチャンスはあるって事だ」
 西森は俺の顔から手を放して、今度は西森の肩に乗せてた俺の手を握ってきた。
「? 何のこと?」
「はじめは日高先輩への対抗意識もあったんですけど、今はそんなの抜きで一緒にいたい」
 西森は怪我で気が弱くなっちゃってるのかもしれない。こんなしおらしい西森は始めて見た。
 そろそろリレーの時間が迫ってるのが気になるけど、でもこんな状態の西森を放っては行けない。
 俺が見つからなきゃ山本か誰かクラスの他の陸上部員が出てくれるはず。後で謝りまくって海パン一丁で校庭20周することにして、俺はもう腰を据えて西森に付き添うことに決めた。

「分かった、ここにいるよ。心配しなくても放っていかないから、安心して横になれ」
「一緒ってそういう意味では……」
「そういう意味じゃない、って? あ、毛布を取ってきてやるって言ってたんだよな。取ってくる!」
 一緒にいるにしても先に毛布を取ってきてやらないと。でも西森は走り出そうとした俺の体操服の裾を掴んで引き留めた。
「毛布は要らないですよ。いいからもうグラウンドに戻って下さい。本当にリレーに遅れちゃいますよ」
「え? だって、一緒にいてくれって……」
「今の話じゃないんです。今はリレーに出て下さい。日高先輩も篠田先輩が走るのを楽しみにしてるんでしょう? がっかりしちゃいますよ」
「うん……でも、怪我してるお前をほっとけない。日高なら分かってくれるよ。日高だって本当はお前のこと好きなんだから」
「気味の悪いこと言わないで下さいよ」
 西森は眉間に皺を寄せて心底嫌そうな顔をする。だけどホントだから。何だかんだ言いつつも、好きじゃなきゃあれほど西森の行動を読めやしないよな。
「走るのはいつでも出来るけど、こんなしおらしいお前は今しか見られないだろ? ほら怪我人、さっさと横になる」
 俺はいつまでも机の上に座り込んでる西森の肩を押して寝かせて、足の腫れに触ってみる。
 もうそろそろまたアイシングを初めた方がいいな。俺は西森の足の横に置いてたアイスパックを手に取った。
「そろそろ冷やそうか。寒くなったら言うんだぞ。毛布を取ってきてやるから」
「ありがとうございます」
 また大人しくお礼を言ってくる西森の足首にアイスパックを乗っけて落ちないように固定していると、西森は首をもたげてじっと俺を見ていた。
「どうした? 痛いか?」
「大丈夫です。……親切のつもりで言ったことで突き落とされて、先輩に迷惑掛けて……みっともないったらないですよね」
「みっともなくなんてないよ。でもさ、ちょっと心配だな」
 俺は西森の頭の方に移動して、西森の癖毛を撫でて頭を机の上に降ろさせながら話しかける。
「何がです?」
「西森はさ、言葉を選ばず何でも直球勝負で言っちゃうから誤解されるんだよ。お前は自分を良く見せようとしたり、いい人ぶったりとかしないから。俺はお前のそう言うところ好きだけどな」
「好き、ですか。……ひどいな」
「西森?」
 誉めたつもりだったんだけど、俺も言葉選びを間違えちゃったかな? ひっそり焦る俺に気付かず、西森は両手を額にかざした。
「熱が出そうですよ。いや、もう、出ちゃってるか」
「え? 大丈夫か?」
 指は動かせるし肌の変色も大したこと無いから骨折はしていないと思ってたけど、熱が出てきたなら折れてるのかもしれない。慌てて熱があるか確かめようと西森の腕をどけて、おでこに手を当てた。
 そんなに熱くはないみたいだけど……と、様子を見ていると廊下を誰かが走ってくる音がした。


「あれ? 日高」
「聡! 西森も……何でふたりともこんな所に!」
 開けっ放しだった扉からのぞき込んで、俺達の姿を見て中に飛び込んできたのは日高だった。
「日高こそどうしたんだ? こんな所に」
「何をのんきな―― 君に似た人が西森に救護テントへ連れて行かれたって聞いて……でも救護テントにもいないし。探したんだよ。どうしたの? 気分でも悪くなったの?」
 日高は息を切らしながらも一気に説明してくれた。俺のことを走って探し回ってくれたらしい。
「俺が西森を救護テントに連れて行ったんだ。西森が捻挫したんだよ」
「それでどうして家庭科室に? こんな、人気のないところに」
「横になった方がいいんだけど保健室のベッドはふさがってるから、ここのでっかい机をベッド代わりにして寝かせようと思って」
 確かに事情を知らない日高からしてみれば不思議だよな。俺は事の成り行きを説明する。そこで怪我の発端を思い出して、また怒りがこみ上げてきた。
「そーだ! 日高。ひどいんだよ。こいつ障害物走でわざと突き飛ばされて捻挫したんだ」
「故意に突き飛ばされたの?」
 俺の言葉に日高の表情が険しくなる。
「そんなの今はどうでもいいでしょう。ほら、篠田先輩。お迎えも来たことですから、さっさとグラウンドに戻って下さい」
 話を聞こうとした日高を西森が遮る。日高もその言葉で当初の目的を思い出したように俺の腕を取った。
「そうだ、もうそろそろ騎馬戦も終わるのに君の姿が見えないから探しに来たんだ。リレーが始まるまでもう時間がないよ。早くグラウンドに戻って!」
「日高、それで探しに来てくれたのか」
「他のみんなも君を探してる! さあ早く戻ろう。西森の話はまた後で聞くから」
「でも、西森を置いて行けないよ。悪いんだけど日高、山本に俺の代わりに出てくれって伝えてくれない?」
 俺の言葉に、日高はよっぽど驚いたのか俺の腕を掴んだ手にぎゅっと力を込める。
「リレーに出ないつもり? これが最後の種目なのに。あんなに楽しみにしてたじゃないか」
「篠田先輩。俺は大丈夫ですから行って下さいよ」
「でも今アイシングをしっかりしておかないと。後遺症が残ったらどうするんだよ」
 二人掛かりで説得されても、俺はもうリレーより西森の足の方が気になっていた。
 高校最後の体育祭のリレー。しかもアンカー。すっごく走りたかったし楽しみにしてた。
 だけど、走ることはいつだって出来るけど、西森の捻挫の手当は今しておかないと。後遺症でちょっとしたことで痛むようになる可能性がある。そうしたら西森はその度に逆恨みで突き飛ばされた嫌な出来事を思い出すことになるかもしれない。
 きちんと治して、あの時はひどい目にあったけどいい思い出だって笑って話せるようにしてやりたい。

「ねえ、聡。これが最後の体育祭なんだよ? 走らないと絶対に後悔する。僕も君の走るところが見たいよ。君の走る姿が好きだって言っただろう」
「怪我した後輩を放っておいて走りに行くような俺のことを、日高は好きだって言えるか?」
 俺の言葉に日高は言葉に詰まって一瞬黙る。だけど一呼吸置くときっぱり言った。
「分かった。そんなに心配なら西森は僕が看てる。だから君は行って」
「でも、それじゃあ日高は……」
「それで君が走ってくれるなら、僕はそれで良いよ。応援できないのは残念だけど、君なら絶対一位になれるって信じてるから」
 俺に負けず劣らず一歩も引かない勢いの日高に、今度は俺が押され気味になる。そんな俺達の間にまた起き上がった西森が割り込んできた。
「まったく。怪我人の前でうるさい人達だな。こんなんじゃゆっくり休めませんよ。さっさとふたりともグラウンドに行って下さい」
「でも……」
「もう一度感覚が無くなるまで冷やせばいいんでしょ? それくらいのこと自分で出来ますよ」
 相変わらずの偉そうな憎まれ口。だけどそれは俺を行かせるための強がりだ。
 そう分かっているから放っておけない。
「だけどやりすぎたら凍傷になっちゃうんだぞ。付いて看てる人がいないと駄目だ。それにちゃんと横になってなきゃ」
「先輩がリレーに出ないなら横にならない」
 肩を押して寝かそうとする俺の手を抑えて、西森はさっき俺が西森を救護テントに連れて行くときに言った言葉を俺の言い方をまねて言うと、にっと笑った。
 3人して意地の張り合いか。うーん、三すくみ。
「俺のせいで先輩がリレーに出られなかったなんて、後遺症が出るよりその方が嫌ですよ。だって日高先輩に一生級の恨みを買っちゃうじゃないですか。まっぴらですよ、そんなのは」
「分かった。リレーがすんだらすぐ戻ってくるから、それまでちゃんと大人しくしてろよ! 感覚が無くなったらすぐアイスパックを外して……」
「はいはい。分かりましたからさっさと行ってさっさと戻ってきて下さい」
 言いながら西森はしっしっと手で俺と日高を追っ払う振りをする。
 本当に可愛くないんだから。これは一生治らないかもな。だけど俺はちゃんと分かってる。
 西森の見送りと応援の言葉を受けて、俺はグラウンドに向かって走り出した。

 けど、昇降口の横の手洗い場にさしかかった俺は、急停止してポケットのハンドタオルを水で濡らすと西森の元に戻った。
「篠田先輩?」
「西森、これ。おでこに当てとけ。ちょっとはましだろ」
 熱っぽいって言ってたもんな。おでこを冷やしたら気持ちいいだろう。俺は西森に走り寄って濡らしてきたハンドタオルを手渡すと、その手を掴まれた。
「いっそ、嫌われてしまえば諦めも付くのかな……」
「西森?」
 西森のどこか痛みを堪えてるような表情に立ち止まったまま動けなくなる。そんな俺の耳に、俺が付いてこないのに気付いた日高の声が届く。
「聡! 何してるんだい。早く」
「さあ、行って下さい。うるさい人が呼んでますよ」
「でも……」
「とっとと行って、一着で戻ってきて下さい」
 いつもの生意気そうな笑顔に戻った西森に肩を叩かれ、廊下から呼びかける日高の声に急かされ、俺はダッシュでグラウンドへと戻った。


 俺の代わりに出走させられそうになってた山本に派手にデコピンを食らわされたものの、何とかリレーに間に合った俺は、三位で渡されたバトンを一位でゴールへと運んだ。
 ゴールを切って西森のいる校舎の方を見ると、家庭科室の窓辺に立ってフェンス越しに西森がこっちを見ているのが見えた。西森も俺の視線に気付いて手を振る。あいつ、大人しくしとけって言ったのに。
 だけど俺は見ていてくれたことが嬉しくて、西森に大きく手を振った。



 空の高いところで、鱗雲が夕日に朱く染まっている。空の低い部分ではアキアカネが群れ飛んでる。
 日が暮れるのがずいぶんと早くなったな。
 朝礼台の上に座って、夕暮れ時の少しひんやりした風に吹かれながら俺はそんな物をただぼんやりと見上げていた。
 テントも片付けられ、祭りの後のグラウンドにはもうほとんど人影はなく、さっきまでの活気が嘘のようにがらんとした空間が寂しく広がっている。
 俺の他にはグラウンド奥のネット近くの観客席に、名残を惜しむようにたむろしながら話をしているらしい数人の生徒がいるだけだった。

「何見てるの?」
「空を見てる。もう秋だなーと思って」
 生徒会の用を済ませた日高が俺の元にやって来た。家の方向が違うから別に一緒に帰るわけじゃないから待ち合わせたわけでもない。
 だけど俺は日高を待ってて、日高は俺の元にやってくる。
 日高も俺に倣って空を見上げた。風が日高のさらさらの髪を揺らす。
 そのままふたりして同じ空気を感じる。

「西森はどうした?」
「本人は大丈夫だって言い張ってたけど、足が腫れて靴が履けないから田村先生が車で病院へ連行したよ」
「そうか。よかった」
 俺がしたのはあくまでも応急処置。だけどあの意地っ張りが後からちゃんと医者に行くか心配だったんだけど、先生が連れて行ってくれたから安心だ。
 それに日高がさらに頼もしいことを言ってくれる。
「その西森に怪我をさせた奴のことだけど、ビデオや写真を撮ってた生徒からデータを提出してもらって、突き飛ばした現場が映っていないか調べてみるよ。このままにはしておかない」
「ビデオ! そうか、映研と写真部が撮ってたよな。他にも個人的に写真を撮ってた生徒もいたし、何か映ってるかもしれないよな」
 それは気付かなかった。さすが日高は冴えてる。西森は放っとけって言ってたけど、すっきりしなかったんだよな。
 気がかりがすっかり消えた俺はホッと溜息をついた。夕暮れの爽やかな風がさらに気持ちよく感じられる。
「可愛くはないけど、あれでも一応僕の後輩だからね。それにあのせいで君が最後のリレーに出られなかったかも知れないんだから。 ――僕の周りの人間に、君に、危害を加える奴は許さない」
 日高の静かな笑みがちょっと怖いけど、頼もしいからいいか。
 日高はいつも頼りになる。日高のお陰でリレーにも出られたし、いくら感謝してもしたりない。
「ありがとうな、日高」
「どうしてあいつのことで君がお礼を言うの?」
「西森の事って言うか、今日のこと全部だよ。俺をリレーに出させてくれたじゃないか。このグラウンドで最後の晴れ舞台に立たせてくれた」
 西森のことは本当に心配だったけど、だけど走りたかったのも本当だ。
「走ってるときの君が、何より好きだから」
「俺さ、やっぱり走るの好きだ。走れてよかった」
 大したことじゃないっていう風に日高が微笑む。
 走ることも、俺を走らせてくれる日高のことも大好きだ。
 俺は日高の首筋に手を掛けて引き寄せると、そのままキスした。
「さ、聡! 君、こんな所で」
「大丈夫。これくらいなら内緒話してるくらいにしか見えないよ」
 不意打ちは日高だけの専売特許じゃないんだからな。慌てて離れる日高に余裕で笑う。
 ずっと離れた場所にいる生徒達の方を見ても、俺達なんて眼中にない様子で話し続けてるように見える。こっちからも彼らがくっついて話してるみたいに見えるだけだから向こうからだってそうだろう。
 誰も俺達なんか見ていない。何をしてるかなんて分からない。
 だから俺達は何度も内緒話を繰り返す。


 夕暮れのグラウンド。日が沈みきるまで、俺達はふたりずっとそこにいた――

(up: 26.Sep.2007)

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